呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

これは最近のつづきの方です

ラジオ体操第一というのを学校に通っている時代にはよーくやらされた記憶があります。

建設現場の近くを朝に通り掛かるとラジオ体操の音が聞こえて来たり、その他の職場でも未だに重宝されて朝の準備運動として普及しているようです。

あのラジオ体操第一の最後に深呼吸というのがあります。

あの深呼吸では両腕を広げながら高々と挙げて空気を体内へと取り込み、そして挙げた腕を降ろしながら息を吐いています。

そのように、はっきりと柔らかく脇腹から動かすように腕を挙げることで肺は大きく広がって沢山の空気を取り込むことが出来ます。

実はあれは、形としては本当に分かり易い呼吸と体を関連付ける動きなんです。

但し、あのラジオ体操のルーツは厳密に辿ってみますとどうやらその昔、性的欲求を抑制する為に編み出された体操だそうで(進化変形型とは言えそれを今では朝早くから子供やお年寄りがやってると思うとちょっと変な感じがしますし笑ってしまいます)、だからかどうかは分かりませんが、誰かが作曲したテンポに合わせて呼吸させられてしまいます。本当の意味での自由な呼吸にはならないということです。

音楽無しでやっていても、誰かリードする立場の人が居たらその人の動きに合わせてやろうとしたり、みんなバラバラにやっても何となく大体のテンポやリズムに合わせてしまうということがあるでしょう。例え一人でやることがあっても、この後説明する本当に奔放な呼吸には、このラジオ体操をベースにはなかなか出会えないのではないでしょうか。

この画一性が、統率の取れたチームワークにも繋がるとか、そんな精神性にも繋げられてしまっている可能性は大いにあります。

それで、それでは残念ながら心の解放には繋がりません。

僕のやらせてもらっている呼吸のワークも、何だかんだ言って結局は体操の一種と解釈されてしまっていることはしょっちゅうありますし、ちょっと体調が思わしくないと「今日はお休みします」などとなってしまうのも、こんなラジオ体操の“洗脳”がよく効いているなと感じざるを得ません。

他にもある色んな呼吸へのアプローチも、気を付けていないと、多くの人々の心の奥では全てラジオ体操の亜種扱いとなっているかも知れません。

個性を伸び伸びと発展させたいのか、個性を都合よく抑え付けて“役に立つ”人間を大量生産したいのか、呼吸の在り方からはっきりとさせなければらないとは常々思っています。

それで、腕を挙げることと呼吸が繋がっていることは比較的理解し易い、感覚として捉え易い方法の一つだと思いますから、この動きを、見た目の綺麗さとか、腕を挙げる角度や動く速度も何もかもをその人その人の自由にしてあげれば良いということになります。

こんな自由なラジオ体操の時間(最早これをラジオ体操とは呼べないでしょうが)を朝から学校では出来る筈がないということは容易に察しがつくと思います。

こんなことをやってしまったら、勘の鋭い子は、と言うか子供は勘が鋭いと思いますが、生徒の殆んどは学校なんか必要ないという事に気付いてみんなどっかへ行ってしまうかも知れませんから。

それは余談ですが、効率良く呼吸をして、とにかく余分なエネルギーを消費しない為には、先ずはなるべく胸郭の広がりを助長するような簡単な動作を伴って、空気を体内へ取り入れる事が大切です。

繰り返しますが、伸びやかに腕を挙上することは肋骨が広がり易く、最も簡単に具体的な体の動きと呼吸が一致していることを確認、体得し易い動きです。

そして加えて大事な事、それは、せっかく呼吸を楽に促進させる為に少々大袈裟に腕を使っているにも関わらず、まだそれに加えて鼻の穴から空気を無意識に“吸引”してしまう人は多く居ますが、その吸引は必要無いということです。

これは前に少し書きました、呼吸版満腹中枢の勘違いのような事です。

腕を伸びやかに挙上するという事を、挙上していない方の掌で挙上している側の肋骨、脇の下辺りに触れながらやってみますと、肋骨が蛇腹のように上下に広がるのを感じることが出来ますが、それだけ、もうその動きだけでかなり肺が広がったという事を証明しています。

そこに念を押すような吸引作業は全く必要無いのですが、多くの人に取って、自分の努力で息を吸った実感はとても大切であることが多いようで、それが無駄なエネルギーの消費であることにもなかなか気付くことは出来ません。

寧ろそのような“癖”が根強いままだと、今後更に説明する予定の、下半身が主役とも言えるような本格的な呼吸へとは戻し難くなってしまうものです。

片手で脇の下、肋骨に掌を当てたり、ちょっと擦りながら腕を伸びやかに挙上してみると、その伸びやかに動いた分に見合った分量の空気が体内に流入しています。

これは、勿論流入という言葉が相応しい反応ですが、スピード感としては殆んどテレポーテーションです。

腕を挙げたらもう既に肺の中に沢山の空気があったと、過去形で表現したくなる位、一瞬の出来事です(※そもそもがどんなに長く強く息を吐き出し続けても、肺の中の空気がそれで空っぽになることは無いですね)。

これが当たり前のように確認出来るようになった時(初めは難しくても誰でも割りと直ぐにそうなれます)、体を殆んど動かさないで充分な呼吸をしてみる時と(充分なというのは全身の隅々にまで血流に乗ってしっかりと酸素が届けられているかどうかという意味で)、今説明したように例えば片腕を挙上して呼吸をしてみる時とで、全体的に感じる疲労度を比べてみることが大事です。

片方は殆んど外見的には運動らしい運動はしておらず、もう片方はそれに比べて片腕を上下する訳ですから運動量が多いのは一目瞭然です。

ところが、長時間続けて疲れが来る、或いは疲れそうな予測がつくのは、あまり動かずに呼吸をする方です。

この腕の上下動を、呼吸と関係なく、例えば腕への鍛練や負荷としてやると、勿論それは疲労が蓄積しますが、今やろうとしていることは、動きそのものが呼吸なのだと体レベルで理解することです。なので筋トレや体操とは根本的に違いますから、テンポやリズム感はあくまでも呼吸からの要求に添ったもので機械的なピストン運動とはならず、回数を重ねることが殆んど負担には感じられない筈です。

それは腕を動かすことで、呼吸という一つの営みの仕事量が、呼吸器官としてクローズアップされ易い部位のみの状態から腕へと分散されるからです。

一見無駄な動きをわざわざしている印象ですが、呼吸という全身に取って大切な仕事を、呼吸器官だけに責任を押し付けずに、積極的に手伝える部位には手伝ってもらった結果、疲労度も分散されて、負担が減るという現象が起きたのです。

このように小さな体験を積み重ねて行くことで、段階を踏んで、解剖整理学的な呼吸器官という概念が如何に狭義的なことで、更には腹式呼吸なんてものが本当は腹式では無いのが理解されて来るのです。