前回の問い掛けは伝わり難いのを承知で投げ掛けておりますので意味が分からない方がもしいらしても焦らないでください。
ワークショップで実際に体を動かしながらお伝えしても伝わり切らない内容を、ましてや言葉ではもっともっともどかしくなるのは当たり前のことです。
そもそもが完全になど伝わらないことを前提として行うのがコミュニケーションの基本だと思います。
メソッドとしての呼吸“法”というボキャブラリーが既に頭の中にある。
息を“吸う”という言葉と意識が常識として定着していて何の違和感も無く使用出来る。
この超変人ブログのような先ず大前提として“呼吸”という言葉自体を使わないで済むのなら本当は一度たりとも使いたくは無い位に“呼吸”という言葉の造り出す限定性や枠に疑問を特には感じない。
それがこの文章をお読みくださっている方々の現状かと思われますので、どうしたってこのような文は筆者の独りよがりとなります。
それでも書いているのがこのブログなので、ここで再確認させて頂きました。
昼と夜は交互にやって来て、寝ると起きるは交互にやって来て、満潮と干潮は交互にやって来て、新月から満月へ、満月から新月へと推移し、心臓の拍動·脈拍や呼気と吸気、吸気と呼気も交互に繰り返されます。決していつも均等では無いけれども、交互に行われることが自然の摂理と言えます。
それで、緊張と弛緩も同様であるのが理想です。過覚醒や過緊張はその交互にという自然のルールから逸脱した状態で、高じれば調整の為に何らかの具体的な不調に見舞われたり、極端に真逆の抑鬱などの症状を引き起こさざるを得なくなるでしょう。
交互に、順番こに、これらを終局的に全て根底から引っくるめて深く深く捉えてゆくと陰と陽に行き着くのだと思います。
それで前回の後半での問い掛けです。
積極的な仕事として空気を体内へと取り入れたなら、自然の摂理としては、体は休息を望みます。
取り入れた空気の量が多ければ多いほど体内の圧による緊張感·膨張感も高まりますので、その直後に体が期待して望むのはその緊張からの解放·弛緩です。
この“本来の”自然なルール、思考が提案して来るようなアイデアを一切採用せずに、正に手付かずの状態の呼吸そのままで呼気に何らかの言葉や表現を乗せるとしたらどうなるでしょうというのが今皆さんに問い掛けていることです。
そして実際に世間一般に人から人へと伝達されている表現に関するやり方は、この純粋な摂理·法則に逆らっているのが殆んどです。
それは、呼吸が切り替わることを認識せずに、ということは、本当に自分が最高の状態でパフォーマンス出来ている時の、何故そんなに凄いことになっているのかの根本原因を上手く自己分析出来ずに、焦点のずれた内容を他人に伝えてしまっているということです。
恐らく世の中の本当に優れた表現者の方で、何故自分がそんなに凄いのかを本当に把握出来ている人は少ないように思います。
例えば歌のレッスンでは、自分もこのように教えてもらったからそれを自分のお弟子さんにも伝える。
しかし、その先生の兄弟弟子や同僚が皆揃って潜在能力を発揮して各々に成功したのかを考えているなら決してそんな安易な伝承とはならない筈なんです。
同じ師匠に学びながらも、その真髄に近付き得た、自分だけが気付いた深い鳴動があった筈なんです。
その、師匠とその教え、その時に自分が受け取って動いた感覚やタイミングが先ずあって、そして今、自分が伝える立場になった時、では今この目の前に居てくれる自分の生徒さんには、また独自の感覚とタイミングに開かれていることを保証するのが先生の本来の唯一の役割です。
話を強引に戻します。
積極的に息を吸い込んで、その状態から発する呼気は本来ならば弛んで萎んでゆく指向性を備えていますが、世間一般では殆んど全て、そこに何らかの補足的な緊張を加えてそれを支えとして積極的な表現へと繋いでいます。
人から人へとその要領を伝える時には特に、不思議とそのように、積極性の次にまたすぐ積極性が来るという、不自然なことを当たり前のように、善かれと思って、何の悪気も無く教えてしまいます。
先程の話のように、もしかしたらその教えている人本人は、自分が絶好調の時にはそんな不自然なことをしていないかも知れないのに、その絶好調の時の自分の凄さの原因を分かっていないばっかりに、仕方無くというか何というか、何となくこれまでの学びや見聞きしたことから、「多分こういうことなんじゃないかな」というような不確定な情報でお茶を濁しているように思われます。
違うのです。
本当に人が凄い表現を出来ている時、呼吸が切り替わってるんです。
それで、本当に人が凄い表現を出来ている時、呼吸が切り替わることを邪魔せずに、自然の摂理に逆らわずに居られている時なんです。