呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

補足が補足を呼び、訳が分からなくならないように気を付けながら書いた記事は、今回だけではなくこれからもつづきます

前回の記事は前々回の補足を手早く纏めて次へと進める積もりが思いがけず長くなってしまいました。

そうしましたら、今度はまたその長くなった前回の補足を書くべく色々なことが頭をもたげて来ました。

ここ1~2週間の文章の中で、呼吸の捉え方や加えて息や声の支えという概念に関して、好ましい状態とそうでない状態とを心の中で設定して書き進めています。

呼吸を呼吸器官と呼ばれる箇所だけに一任してしまうことや、お腹や腹筋で全てを支える積もりになることは、結局その何が問題なのか、何を基準にしてそれらに注意が必要と述べているのかを、明らかにしないまま勝手に書き進めている状況です。

ところで呼吸という営みは能動的でしょうか受動的でしょうか。

日本語では空気を体内へと導くことを吸気と言い表します。また、体内の空気を体外へ排出することは呼気と言います。

誰が、どういったくくりの人達が、いつ頃何がきっかけでこの言葉に選定したのか調べてませんが、割りと難しい言い表し方のように感じます。

吸気。

空気を吸う、単純に捉えるとかなり能動性の高い印象です。

勿論吸気時に起こっている運動そのものはまさに体が空気を取り込みに掛かっている訳ですから能動的です。

しかし、では何故身体は空気を取り込みに掛かるのかというと、それは、そのまま何もせずに居ると、空気、体内の酸素が足りなくなるからです。

このように考えると、吸気は受動的です。

酸素が足りている内は吸気は必要ないからその運動も始まらない。

今、空気(酸素)が足りなくなるとか、間もなく酸素が足りなくなるとか、何処が訴えて来るのかというと、頭の天辺から足の爪先までの細胞全部です。

これは、天体観測やその他科学的な計算に基づいて行う方程式のようなものを駆使して“頭”がやっていては需要と供給のタイミングにズレが生じてしまうでしょう。

不足という信号を発した側と、その意向に応じて動くべき箇所に動いてもらうことと、その中継地点として“頭”も必要ですが、基本、頭で考えてどうのこうのと手出しする範疇のものではありません。

吸気。

吸うという動詞の与える印象、下手をすると強迫観念。こんなところにも一度気持ちを入れて整理してみないと、この文章はなかなか先に進めないように感じています。

息を吐き終わった時、その吐き出した息に含まれている気体で最も代表的なものは炭酸ガス·二酸化炭素でしょう。所謂排気ガスです。

その時に、ついさっき取り込んだばかりの酸素を体の各細胞がどれ位のペースで消費しているかは、その時にその人がどう過ごしているかで随分変わって来る筈です。

走っている時とじっと座っている時では全然違うのは明白です。

このように観察すると、いつもいつも息を吐き終わったら直ぐに新しい酸素を体が欲しがっているかというと、そうでは無いことも充分にあり得るというのが、少し分かって来ると思います。

もしもまだそんなに急いで次の新しい空気を取り込まなくても良いのに、何かの理由で、例えば体操や何かで他の人の号令に合わせて呼吸をしたり、ちょっと自分の呼吸を意識して吸うとか吐くを頭で制御してしまっているような時等、そんな時には、本来ならしなくても良いタイミングで吸うという運動をしてしまい無駄なエネルギーを消費していることにもなります。

これでは、何の為の呼吸か分からなくなってしまいます。

効率良く生命を維持する為の基本としての最たる営みに対して、効率が悪くなるような方向性を体が選択するのはおかしな話です。

何の話からこのような展開になったのかと言えば、僕がこれら一連の記事の中で呼吸が深いとか浅いとか、理に敵っているとか敵っていないとかを、何を基準に論じようとしているのかを明確にしようとしていたのでした。

呼吸は生きる為の営み。

その営みを純度高く保つ為にはその時その時に体のやりたいように任せるのが自然で安全ではないかということ。

この項では詳しく触れられていませんが、頭·思考は勘違いしたり暴走する恐れもあること。

そして声とは、体がどのようにして空気を取り込んだかのリアクションの一つであると位置付ければ、クリアで澄んだ声と雑味の沢山混ざった声の違いやその意味するところ、聞いていて心地好い声とそうでない声の理由等にも論が展開されやすくなると思い、この記事が構成されました。

人によっては極めて当たり前の事、いちいち再確認しなければならないような事かと思われるでしょう。寧ろ皆さんがそうであれば素晴らしい事です。

しかし、呼吸を通じて何かに気付こうとしたり、何かを得ようとしたり、又、そこに発声技術や更には歌なんかが絡んで来ますと、場合によっては色々とこねくり回したり考え過ぎたりして、本末転倒なことをやってしまう人も実際に居る訳です。

なのでやっぱり、今回のこんな記事も必要に駆られて書いた気がします。

話の焦点を見失わないように気を付けながら、又、次回以降につづきます。