呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

のんびりしていたらえらい久しぶりの更新となり、挽回しようとしたらえらい長くなりそうなのでちょっと自重した割にはちょっと長い話

体のあちこちにロックが掛かっていない状態こそが本来の呼吸です。

体という器の容積を広げる、これが空気を体内へ、先ずは肺へと取り込む作業の全てです。

なので、勿論お腹も膨らみます、背中も膨らみます。特に背中でも腰よりもちょっと上の部分、腎臓がある辺りは、横隔膜と腰椎の付着部にも近い為か膨らむように動いているのがより把握し易くもあります。

肋骨に手を添えてみると呼吸と共に静かに動いているのがよく理解出来ると思います。

これらの内のどの部分でも、そして今挙げた以外の全身のどの部分も、「今、自分はどんな呼吸をしているのか」を実感するのに充分な窓口となり得ます。

但し、いくら体のどの部分でもとは言いましても、いきなり足の裏や頭の天辺でそのように呼吸の実感を得ようとすると余りにも動きが微細な為に却って混乱したりがっかりするかも知れませんので、お腹や腰の辺りや肋骨にそっと手を優しく当ててみるのが無難と言えば無難です。

それで肝心なことは、そのように手を当ててみた時に呼吸の動きがはっきりと把握し易い場所が、決して呼吸の主役ではないということです。

ですから、そのような呼吸に伴った動きの目立つ部位に自意識をプラスして、「もっと膨らむように、もっと動くように」と加勢するようなことがもしあるのだとしたら(実際にやっちゃう人、更にそのように人に教えちゃう人、結構たくさん見て来ました)、それは得策ではありません。

このような欲から発生するちょっとした緊張が、本来の生命力を体現しようとしている体にとっては、ちっとも“ちょっとした”ことでは無く、大変迷惑な行いとなります。

前にお話しました、電車の座席でちゃんと詰めて座らないヤツのような部位がが体内に現れるのは大概このような時です。

それらはあくまでも全身で同時に働いている中の、割りと目立って把握し易い場所、比較的動きの振幅が表面に現れ易い場所、というだけです。

欲深さの塊のような精神で呼吸の、即ち全身のバランスを乱すような愚行はよくよく戒めなければならないでしょう。

お腹や背中や胸が豊かに動くのは、その周りの部位が動きを塞き止めていないからです。その周りの部位がお腹や背中や胸の動きを塞き止めずに居られるのは、更にその周りの部位が動きを塞き止めていないからです。更にその周りの······、という具合に体の端々まで呼吸の微細な波は伝わって行くということです。

なので、本来であれば呼吸なんか意識せずに、ましてや呼吸 “ 法 ” なんてモノを教えたり習ったりせずに、放っておけたら一番、これが大正解の筈なんです。

ところが、生活の中に利便性を追い求めた色々な道具や効率を求めたアイデアが氾濫するにつれて人間=生物としての体の能力を使わせてはもらえない状況が段々と主流になったせいで、ただ放っておいてはどんどん体の中に新鮮な酸素が必要ではないと勘違いしているかのような部位が増えているように感じます。

あらゆる不調の根本原因とも言える“冷え”という症状がそれをよく表しているように。

命懸けで獲物を捕らえなくても、延々と歩いて水を汲みに出掛けなくても良いけれども、体はそのように体を使ってちょうど良いように出来ているのかも知れません。

それでいて情報量は肥大し流れるスピードも異常で、これではただでさえ酸素の消費量が全身中随一とも言われる脳に更に血の気の偏りが出てしまっても不思議ではありません。

なので、多くの人々にとっては、今のまんまで呼吸を放っておくことは親切なこととは思えないのです。

ほんの少しの気付きを持って、整えてあげた方が良い、これはこれ迄に多くの皆さんと呼吸を味わわせてもらった経験上、間違いないことです。

自分も皆さんも、簡単に言うと機嫌が良くなる表情が柔和になる肌艶が良くなる、こんな状態を見ていると、そう思わざるを得ません。

それほど普段、人は知らず知らずの内に不機嫌な心身へと追い詰められているとも言えます。

これは、機嫌が良い状態になった時にやっと、実はついさっきまで機嫌が悪かったことに気付けるという程に怖いことでもあります。そのような不機嫌な状態が普通だと思い込んで普段を生きているのですから。

そのことを体感し大切さを実感してくださった方々が、自分のペースを大切にしながらワークショップに参加してくださるようです。

ところが、不機嫌な方の自分が本来の自分で、そのエネルギーが元になって今の活動が成り立っていると思い込んでいる人は、恐らくは心の深い処からの抵抗が出て、色んな現実的な理由によりご縁が遠退いてしまうようです。

こんな時、去る者は追わず。

今回の新型コロナ騒ぎもその契機となっています。

さて次回は多分、体の隅々までが呼吸に協力的ではない時にどうするか、これは即ちこのワークショップで何をやっているかということとも近い話になりますが、そんな事を綴ってゆくように思っています。

それと、今回のこの記事への補足、これがまた曲者感バリバリの存在感を早くも予感させていまして、また長くなる、どころかそれだけでまたまた一回終わってしまうかも、という予告です。