ずっと以前の話ですが、声楽関連の団体の集まりで何回目かのレクチャーをした時に、歌の先生でコーラス団体を幾つも率いている女性が「何で呼吸法の人が歌のことにごちゃごちゃと口出しして来るの」と怒り出したのです。
耳を疑うような台詞とはこういうのを指すのでしょう。
それにしても今から思い返すとホンマにいざこざが多かったなぁー。
「お前らが呼んどいて何をぬかしとんねん」(←※心の声)
僕もこのような団体は話が通じないことが多いので物凄く乗り気で行ってる訳でも無く、更には、普段から定期的にワークを受けてくださる方々のスケジュールをキャンセルしてまでこのようなイベントに参加しているので、こんな時は、レギュラーのクライアントさん達にも本当に申し訳ない気持ちになります。
悪条件の下での対話として、対面の山の頂上同士で大声でやり取りする方がまだやってみる価値はありますが、ここに登場したコーラスの先生のような方とはどんなに物理的な距離が近くても対話は成立しません、と、その時は思い諦めて、遠くの方を見詰めるだけの自分が居ました。
最近の記事で何回か書いている、呼吸版満腹中枢の勘違いは、一所懸命に歌の勉強をした人に特に多く見られるように感じています。
ブレス、息継ぎの際に素早く息を吸い込む癖が付いてしまっているようで、そのような方は普段の会話の途中にも空気を吸い込む際の摩擦音がはっきりと聞こえる程です。
豊潤な量の息を吸い込んで、高い声や低い声、強弱、そして長いフレーズに対応する為の準備を整えようとするのでしょう。
書道や水彩画に例えると、筆にたっぷりと墨や絵具が含まれているような状態を常に保つような感覚でしょうか。
それで先ずここで大事な事を確認しておく必要が出て来ます。
これを理解していれば、さっきのオバハンも(※またオバハンって言ってもうた)、怒ることは無かったでしょうという話です。
それは、「歌の為だけに呼吸することなんて、一生の内にたったの一回も出来ない」という事実です。
歌を歌う努力をしてしまうと、歌のレッスン、練習になると、人はあたかも歌の為に呼吸をしているかのような錯覚に陥ります。
しかしその時にやっている呼吸は正確には、歌の為にやっているのではなくて、歌を生成する為に “ も ” 役立っている呼吸です。
それは何千回何万回と歌い続けても絶対に揺るがない事実です。
本人がいくら今歌っていることに集中しても、その呼吸は先ずは全身の細胞が死滅しないようにという目的が第一です。
人は肺の中に取り込んだ空気をとんぼ返りさせてそのまんま吐き出している訳ではありません(この一面だけに着目することは生理学の言葉で言うと“外呼吸”という概念に近いと思います)。
取り込んだ空気、その中でも酸素を血流に乗せて身体各地の細胞へ届け、交換した排気ガスを吐き出しているのです(ここまで呼吸を捉え直せると、それは生理学の言葉では“内呼吸”という概念に近くなります)。
どんなに歌い手が歌に集中し専念しても、今述べた活動が呼吸の目的です。
外呼吸ばかりに意識や知識が向いて、内呼吸の事実が忘れられているのは困った問題です。
歌や声とは、どんなに足掻いても排気ガスの二次利用に過ぎません。
なのでもし、歌の為に潤沢な空気を体に取り入れたいなら、それに見会った量の空気を体が欲する状態を実現しなければならないのです。
コンサートの本番は勿論、歌のレッスンでも、もし緊張の度合いが高まって(レッスンで緊張を強いているのは誰でしょう)指先や足先が冷たいような状況ならば、体内の血流は滞り気味で、それはつまり、体が息を沢山取り込もうとはしていない状況です。もしかしたら身の危険を感じている若しくはそれに類似した精神状態なのでしょう。
スケジュールとしてレッスンの日、レッスンの時間ではあるけれども、心や体が歌うタイミングでは無いということも、決して軽く扱ってはいけない事実として、結構よくあることでしょう。
歌に過不足の無い量の息を無理なく体に取り込む為には、やはり前回までに執拗に述べた身体各部の具体的な動きによる呼吸への協力が必要不可欠なのですが、その前に更に見落としてはいけない事があります。
それを理解する為に先ずは体のあちこちを余すところ無く自分でよく触ってみるのです。特に足の裏から股関節、更には骨盤にかけて、とにかくよく触ってみます。
下半身が済んだら上半身も、腕や掌や脇の下、誰かに背中も触ってもらえたら完璧です。
たったそれだけで確実に体全体が温かくなり、血流が体の隅々にまでしっかりと行き渡るのが実感されることと思いますが、この状態は既に、それだけ多くの酸素を身体各部にせっせと届けている状態でもあります。
つまり、どのように空気を取り込むかという技術的な事以前に、こんな簡単な方法で体全体を目覚めさせれば循環が良くなってそれ相応の酸素も必要になるのですから、この時点で自然に呼吸の量も増えているのです。
自分の意識で吸い込む努力をしたかどうかなど確認する隙も無い、体が勝手に呼吸の量を増やした状態です。
体を入念に触る前と後では、呼吸による体全体の拡張と収縮の振幅が、確実に変わって大きくなっている筈です。
体を左右に分けてやってみると、その差が歴然として、よりはっきりと体感出来るのでお勧めです。
このような状態でも無いのに、どうにかして多量の空気を吸い込もうとすれば、それが過緊張も誘発することは簡単にイメージ出来るのではないでしょうか。
食事で言うと、あんまり食欲が無いのに無理矢理食べさせられている状況です。
このように全身にくまなく呼吸が巡るような状態は軽いランニング等でも作れますが、その場で体を優しく触ることは徒に体力も消耗せず、呼吸が乱れてこれから取り組む曲のリズムに影響することもありません。精神的にも落ち着きます。
それで、このように体が必要としている呼吸の分量を無理なく増やせば、それを二次利用して生まれる声・歌への負担も無くなる若しくは軽減されるのです。
声や歌とは、繰り返しますが排気ガスの産物ですから、これは正確にはどのように空気を取り込んだかの結果がそのまま表れることになります。
簡単に言うと、全身の隅々まで細胞を潤すような酸素が効率良く届けられたなら、その条件に見合った音にしかならないということです。
無理な緊張と共に空気を取り込んで、体の何処かに硬さが生まれてしまったなら、それを吐き出す時に出る声はその条件に見合った声にしかなりません。
歌を指導する時、声の質、特に緊張を多く含んだ声に対して是正を求めて指導することがもしも万が一、そのような乱暴なことが仮にあるのだとしたら、吸気のところから優しく見直すか、場合によってはその指導する人が何処かへ消えてあげるのが良いと思います。
僕は歌のレッスンの多くが、この事実をねじ曲げる事が目的となっているように感じてなりません。
明らかに不必要な緊張を伴った空気の取り込み方をしているのに、声を出す瞬間にそれを無かったことにしようとする試みが歌のレッスンになってしまっているのではないかということです。
美味しいものを食べた時に、のどが乾いて水分補給した時に、湯加減のちょうど良いお風呂に浸かった瞬間に、どんな溜め息、どんな声が溢れますか。
聴衆の耳をつんざいて肩凝りを誘発することが目的で歌う人はこの話をどうか読まないでください。時間の無駄ですし、そもそもそのような歌を僕は否定しません。寧ろ共感して聞きます。
しかし、聴衆の耳をつんざいて肩凝りを誘発することが目的で歌ってないのに聴衆の耳をつんざいて肩凝りを誘発してしまっている人はどうか読んどいてください。
また、自分で感じる労力の割にはあまり遠くの方まで声が思いが届いてない方にもどうぞ。
鼓膜の振動よりも、心の感動を大切にして、聞いている人を心地好い世界へ誘う為に歌う人に、この話は重要です。
体の隅々までが目覚めた状態で、足の裏や爪先、手の指先に背中や頭の天辺も、全てが紛れもない自分の体であることを感覚として捉え、それら全体に血液が循環している状態で、それに準じた呼吸を体にさせてあげた時に、そのリアクションとして出て来るものが表現、否、表現の種です。
この段階では、それが歌であるかどうかの保証はどこにもありません。
それで、その先に歌があるかどうか、一度勇気を持って自分の呼吸を見守ってあげてみては如何でしょうか。時にはひたすら待ってあげるのも良いかと思います。
それに、それだけ腹を括れたならば、もうそれだけで本来の呼吸や精神の安定性を取り戻せたことにもなります。
朝顔の種を植えて薔薇の花が咲くのを期待してはいないか、スイカの種でトマトを栽培しようとしてはいないかを、今一度確かめてみること、どうせ歌のレッスンをするならば、そんなところから仕切り直すのが良いのかも知れません。
レッスンをするならば、です。
息を体に取り込んだ瞬間に、もう全ては決しています。
呼気の質とは吸気の結果に過ぎません。
当然、声も然り。
それで、心配しなくても、皆それぞれに歌は必ず咲きます。
しかしその種類は、世界のどの図鑑にも、百科事典にも載ってない、SMAPも槇原も歌ってない、正規でも海賊版でもどのCDにも収録されてない唯一無二のものなのです、本来は。