呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

体が本当にやりたがっている呼吸を大切にしてあげてください

「呼吸に関する無意識に植え付けられた固定観念によって発現を阻害されている潜在能力を解放させること」

僕の仕事の目的を今初めてシンプルに言語化出来ました。

ここ何回かで片腕を挙げることを例に取って体の動きと呼吸との繋がりを随分と文字数を費やして説明して来ました。

このまま体のその他の部位一つ一つに付いて同じ要領で説明を続けることも出来ます。可動性の高い関節から始まって地味にしか動かない関節、骨と筋肉と脂肪と皮膚との層のズレなど、細かく呼吸との関連性を探って行くことはとても有益な取り組みとなります。

それで、そのような箇所を順に詳述すると、余程文章力が高くないと呼吸や呼吸のワークショップが辛気臭くて楽しくないものとの誤解を招く恐れもありますので今はそれはやりません。

しかしその中の一部と、一般的に多く植え付けられている呼吸への固定観念を関連付けながら話を進めてみます。

ここで唐突ですが、体を前屈をする場合に於いて、息を吐き出す可能性、息を取り込む可能性、両方があるという事を先に述べておきます。

前屈をする時、その目的の殆んどが、体の柔軟性を確かめるのと、体の柔軟性を高める為のどちらかだと思います。

この時に大体補助的に言われるのが「息を吐きながら」という言葉ではないでしょうか。

息を吐くことで程好く力が抜けるから前屈がより促進される、息を吐くことで体の前面、特にお腹の辺りが萎むので物理的障害が小さくなってやはり前屈が促進されるから、という論理なのだと思われます。

定かな記憶が無くとも、これまでの人生の何処かで一回はそのような台詞を耳にしたり文言を目にしたり、実際にそのようにアドバイスしたりされたりしたことのある人はかなり多いと思います。

それで問題は、その体の使い方と呼吸のパターンがワンセットになって、その逆はあり得ない状態になってしまっている人が、僕が色んな方と出会って呼吸の話をさせてもらって来た経験上かなり多いということなんです。

この固定観念の浸透の度合いは、体を芯から緩めて正しくエネルギーをチャージしたい時と、体の底からエネルギーを正直に伝えたい時の両方にマイナスです。

前屈をした時、確かに体の前面は縮まって狭くなりますが、同時に背面は伸びて広くなっています。

簡単に言ってしまうと、その背面の広がりに感覚の焦点が移ると、体はその広がったスペースを利用して瞬時に息を取り込みます。

この時、肋骨の背中側がかなり伸びやかに広がっていますし、何しろ上半身はバンザイの形ですから、脇の下、肋骨の側面もかなり広がっていますね。加えて横隔膜の下端部は尻尾のような、或いは椎茸やマッシュルームの軸のような形状で腰椎の真ん中辺りに付着していますから、ここも引っ張られて伸びる、つまり横隔膜が足の方向へ降りて吸気のスペース確保に関与しているのかも知れませんが、とにかく息を取り込むことが自然に感じられます。

寧ろ、お腹が凹むから息を吐くといういつの間にか植え付けられた意識や、息を吐きながら前屈すると楽だという意識が息を吐くことを強制している場合もあって、実際にはその吐くという意識的な努力の分だけ能動性が芽生えて少しの余分な緊張にも繋がっている場合は多いのです。

急に話がガラッと変わりますが、これは例え話です。

同じ気温の中で暑がりと寒がりが一緒に居なければならない場合どちらに泣いてもらうかという時、一つの基準となるのが、素材や枚数も含めて着込むのは幾らでも着込める、それに対して脱ぐのは倫理上もそうだし最終的に皮までは脱げない、という理由でちょっと温度設定は低めで、という考え方ですが、何が言いたいのかと言うと、単純に物理的に考えた時に内へ内へと向かって行くよりも外へ外へと向かって行く方が無限性が高まるということです、あくまでも物理的にですが。

これに近い感覚で、息を吐くことと息を取り込むことを比べてみましょう。

動作の終わり、限界点に早く到達し、これ以上無理に続けると変な緊張が増しそうに感じるのは吐くと取り込むのどちらかということです。

結論を申し上げますと、息を吐くことの方が限界点が早く来て、それ以上我慢すると最終的には却って体が硬くなる、その境界線が早くやって来ます。

しかし、そもそも本当に落ち着いてリラックス出来ていると、前屈すると背中、特に仙骨と腸骨の接合部(仙腸関節)が拡張傾向の方向性を示しますから、自然と息を取り込み始めます。

この仙腸関節は、胸郭部分、肋骨の辺りとは随分離れた位置にあって、しかも関節と名付けられてはいますが本当に本当に地味にちょっとずれる程度の可動域です。しかしその印象とは逆に、たった少しの広がりが吸気の際のスペース獲得に協力してくれる非常に大事な箇所です。

それで、呼吸を呼吸器官と名付けられた狭い範囲のみで行うのであれば、息を吐こうが吸おうが同じように直ぐに限界点が見えて来るのでしょうが、実際には息を取り込む際にその身体の拡張は全身に波及しますので、特に前屈では先程の仙腸関節が大きな影響を及ぼして、それらが伸びてスペースにどんどんゆとりが生まれる様を味わっていると、ずーっと息を取り込んでいられるような気分にさえなります。

正に体の隅々にまで酸素が行き渡るような感覚で、広がりが無限のような錯覚を起こしたりもします。

これは、訓練のように意識して“吸い”続けるのとは全然違いますからそこは注意が必要です。

あくまでも、脱力することで体が伸びる余地を探し続けますから、それに任せるだけです。

そして息を吐くのは、それを存分に味わい楽しんだ後です。

リラックスして身体各部の伸長に任せて息を取り込んでいると、意識的な緊張では無くて、体の中に空気が満たされることで生まれる物理的な緊張が発生します。

それを、解放するように吐くのです。

こうして初めて、本当に息を吐きながら前屈が出来て、より指先の到達点が遠くなるのを実感することが叶います。

そして、体がペタンとなった状態を我慢ではなく楽しむ状態で暫く維持することも容易になります。

このように、呼吸によって体や心も調整しようとする時に、体の伸展と息の取り込みの連繋に立ち返ることはとても大切だと思います。

前屈とはまた違った動きで、直立して体を捻る運動でも、ご丁寧に捻りながら息を吐かせる指示がよく書いてあります。

壁を背にして立って、体を捻って両手を壁に着くというやり方です。

やっぱりこれも、体がタオルのように絞られてお腹も萎むので、息を吐くのが自然の摂理だと物事を一面的に捉えてしまっているのでしょう。

しかしこの時も、体の背面の側は物凄く気持ち良く伸びているのです。

吐くとも吸うとも意識で決めずに体を捻ると、体が息を取り込むこと、そしてそれが心身に無理なくとても気持ち良いことが理解されて来ます。先程の前屈と同様、体の伸展と空気が満ちて行く感覚を楽しむことで、伸びが出来ている時間を長く楽しむことも自然に叶います。

そうしてその気持ち良さを充分に味わったらどうするか。その捻る動きをやめてしまえば良いのです。この場合ですと壁から手を離して静かに降ろします。

そうすると、体はゆっくりとその復元力で元の姿勢に戻ります。気持ち良く解放するように息を吐き出しながら元の姿勢に帰って来る感じです。

読者の皆さんで興味のある方は実際にやってみてくださるのが良いですが、出来ればワークショップで一緒にやって頂けるのが一番です。オンラインでも変な話が手取り足取りお伝えすることが可能です。

前屈したり捻ったりしながら息を吐くか、息を取り込むか、どちらも試してみてください。

そして、本当に無理なくその局面々々で心身が伸びやかに楽しんでいる感じ、動作が終わって元の姿勢に戻った時に心身がより充実している感じを比べてみてください。

そのように比較することが心の緊張に繋がってしまう場合や、このような文章を読んでしまったせいでバイアスが掛かって感覚や判断が正しいかどうかに迷いが生じてしまったなら、その時は、それぞれのパターンでどのような特徴を感じて、それらはどのような時により相応しいやり方で有用性が増すかなどを味わってみるのでも良いと思います。

答を先に頭の中で設定しないことが何よりも大切ですから。

一つ言えること、ちょっと大雑把に言うとコンディションを調える=本来の自分に戻る、色々ととっ散らかった感覚をリセット、一旦整理する、といった意味合いで呼吸と仲好くなるならば、やはり体が積極的に動いた時にその動きを利用して息を取り込んで、その動きの終わりが息を吐くことに繋がる、このパターンが“本来の”呼吸パターンとなります。

広がっていたもの=自分の体、が息を吐きながら元の場所=自分の体の中心・深い処・芯・軸······に戻って来るのです。

旅先や出掛けた先から、我が家に、一番落ち着ける場所に戻って来る、帰って来る、そういった感覚です。

息を吐き出しながら自分本来の場所に戻る、こうやって心身にエネルギーをチャージし、肝心な時には惜しみなく外界に対して働き掛けが出来るように準備するのが、普段の普通の呼吸の本来の意味目的なのです。

そして本当に“呼吸が切り替わる”為には、本来であれば、これまでに述べた普段の普通の呼吸の充実が必要最低条件となるのです。