呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

フレキシブルなオンラインワークショップ無事に終了の報告と、呼吸の話のつづきを少々

時間枠を設定せずに扉を開けてお待ちするオンラインワークショップは何とも適度にバラけて数人の方々にご訪問頂き充実の一日となりました。ありがとうございました。

このようにきちんとスケジュールを決めないやり方が本来の理想で、なので複数の皆さんにお越し頂けたことがとても嬉しく思えました。

突然ご参加を思い立って来てくださった方も居て、本当に良かったです。

一回これをやってしまうとこれまでの通常スタイルには戻せなさそうな位に、寧ろ今回のやり方が当たり前に、自然に思えて来てます。

さて、電車内でのマナーの話ですが、先ずは物凄く単純な繋がりでもって体が効率良く空気を体内に取り入れる話の説明を試みます。

本当に単純な例えなので、読み終わったら怒るかも知れません。

でも、怒った人がその内容を知っていて、尚且つ本当にそのような呼吸になっているのかどうかはよく吟味して頂く必要があります。

最近は電車の座席の座面が人一人分のお尻の形に窪んでいることが多くなったので改善されたように見えますが、ちゃんと詰めて座らない人のせいでもう一人座れるところが座れなくなっていることは未だにあります。

荷物置いてるヤツもたまに居ますし。

呼吸に関して全身が協力的であるかどうかとは、第一段階としてはこのように単純なことです。

体が空気を取り込む際に最も目立つ運動は肺が広がることで、その動きを直近でより効率良く手伝うのが、横隔膜が足の付いている方向に収縮して下がることです。

横隔膜が下がる分、その真下に密封されている消化器系の内臓にも同じ方向に押し下げられる圧が加わると思います。

先ずここで、その内臓の数々が、否、その中の一つでも、さっきの例で言うところの電車の座席でちゃんと詰めて座らないヤツのような状態であったなら、取り込む空気の量に何らかの影響が出るのはお分かり頂けるかと思います。

いつか書きましたように、ここまでは多くの方が気付いていて、この滞りが解消された呼吸を腹式呼吸と言うのだと思います。

ですが、体の中の座席はもっともっと長く隅々にまで続いています。

横隔膜に押し下げられた内臓も玉突きのように連鎖的に圧を周囲に伝えます。

決して内臓がターミナルとなって圧を吸収してしまう訳ではありません。

但し、そのような圧が繊細に伝播して行くのを知ってか知らずか阻害し邪魔をしてしまう、そんな体の使い方をすることは残念ながら可能です。

自分の体に意地悪をするように、意識的にそのような邪魔をすることはきっと無いでしょうが、呼吸を促進させようとして余分な緊張が生まれ却ってそれが邪魔になっていることは往々にしてあると思いますし、また、体の全方向へと広がりのエネルギーが伝播する事実を知らないこと、この無知の状況も、厳しい表現をしてしまうと立派な阻害行為と言えます。

先ずは体の各部位が偏った消耗や磨耗をすることなく空気を取り込むことに協力的であるということは、頭の天辺から足の裏、足の爪先、手指の先、背中に至るまで、ちゃんと詰めて座らない迷惑なヤツが何処にも居ない状態であることが重要です。

骨盤底とか骨盤底筋とか呼ばれる部位もその頑なになっていてはいけない体全体の一部です。そこだけが特別なのでは無く、間近で言うと仙骨と腸骨の接合部(仙腸関節)や股関節も大切ですし、そのような関節の方が寧ろ状態を見極めてケアするには易しい部位とも言えます。

骨と歯以外、体は全て軟組織で構成されていますし(爪はどっちでしょう)、骨と骨の間にも椎間板や滑液などのエラスティックなものが介在していて、そして骨そのものに目立った弾力性は無くとも何処かに繋ぎ止められている訳では無いので押された方向に柔らかく若干なりとも動きます。

この若干なりともな動きは若干などと言う生易しい若干さではなく極めて微細であり、錯覚や勘違いレベルの馬鹿馬鹿しい位のほんの些細なものです。

しかし、そのほんの些細なことに着目するかしないかは、生きている限り止めどなく続く呼吸という営みに対してその影響も蓄積されればされる程、全く別の未来へと導くのかも知れません。

このような細やかな観点で体の隅々の緊張を解消することが豊かな呼吸に繋がるとも言えますし、逆に、例え呼吸が矮小化しているような状態でも、そのことに気付き冷静な目で見守ることで、エネルギーを塞き止めてしまっていた部位を優しくほどいてゆく、そんなことも可能なのです。

今回は、電車内でのマナーと呼吸との、単純な方の例えを持ち出してお伝えしてみました。

でも、本当に伝えたい呼吸と電車内でのマナーとの関係性とは、同じ単純さの中に、もう少し複雑で込み入った内容が加味されることとなります。

そして、僕の愚痴も最高潮に達します。

それが面白い話かどうかはさておいて。