呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

次は何処へ話を繋げましょうか

呼吸の話のつづきです。

鼻や口に息を取り込む機能が無いのだとしたら、どうやって体の内側、つまり肺まで空気を送り込んでいるのか。

大体これ迄にお医者さんや科学者と呼ばれるような方々が導き出しているメカニズムは、横隔膜や肋間筋の働きによる肺の拡張が空気の流入を促すというものです。僕も自分の体を感じてみると、多分それで合ってるんじゃないかなと思います。

急に物騒な話をしますと、息を強制的に遮断するには、例えば濡れた紙や布で鼻と口を塞いだり、総合格闘技チョークスリーパーに代表されるように、何らかの方法で気道を圧迫して塞いでしまう事が頭に浮かぶでしょう。

でもそれ以外で息を止めてしまう方法があって、本当に実現可能かどうかは別ですが理論上、レオタードの全身タイツ並みの精度で個人の体型にピッタリの型枠を金属やセメント等の弾力の極めて少ない素材で造ってそこに体を嵌め込むこと。

そんなものにすっぽりと嵌め込まれたら、鼻と口がどんなにクリアに開放されていても関係なくなる、体の外側にピッタリと張り巡らされた壁が体の膨張を阻害して、息は出来なくなるというものです。

それ位、呼吸とは首から下の体がしているものです(※皮膚呼吸は別です)。

ある時ある知り合いの人から、アンドロイドの研究で有名な石黒教授をパントマイムのような方法で騙したい、つまり生身の人間がアンドロイドの振りをしてアンドロイドが陳列されている中に紛れてトラップを仕掛けたいから、呼吸がばれない方法を考えて欲しいと相談されたことがありました。

それで結論は、厳密に体の表面に呼吸のうねりが伝わらない技術は、息を止め続ける以外には捻り出せませんでした。

今日の記事では詳しく触れるところまでは進めませんが、これから書き進むこともあるであろう、体の動きと呼吸との密接な関係性を体レベルで理解、つまり体得すれば、かなり良い線迄は行くと想像されるのですが。何しろアンドロイドは自慢気に常に何らかの動きをしていて、その動きが如何に人間に近いかを披露することに一つの存在意義があるようですから、その動きを利用して呼吸しようという提案です。が、何回かに一回は必ず胸郭や腹部も大きく拡張させるような量の空気を体は欲しがると思うので、完璧な解答を導き出して意気揚々とはなりませんでした。

ただ、この相談事の中で気付いたことですが、いくらアンドロイドが人間にそっくりで、何しろ瞬きだけはこれ見よがしに頻発させてますからリアルだリアルだとは言っても、呼吸のうねりは表現されてないのを知ってちょっとがっかりして、それで、「これはこっちの負けではなくて、呼吸の再現にまでは気持ちが及んでいないアンドロイド博士の負けでしょ」と、負け惜しみを言いました。

それで、それ位に、どれ位に?「アンドロイド博士の負けでしょ」と負け惜しみを言う位に呼吸とは体が受け持つ営みなのです。しかし体という一言で片付けられるものでしょうか。究極的には体も体を包むこの世界の何もかもが一つという境地に達するのかも知れませんが、その前に、もう少し精度高くその内実を見ておいた方が良いように思います。

虹は七色と言われますが、その七つの色の境目にまで気持ちが及ぶとそこには際限無く細分化された到底把握し切ることなど出来ないグラデーションが存在することに気付く筈です。そのように気付いた時に初めて、全てが混ざり合わさった一つの光に立ち返ることが叶うと思うのです。

世間ではよく、腹式呼吸・胸式呼吸とか、もうちょっと感覚的だと、浅い呼吸・深い呼吸とか、何気ない会話にも出て来る位に馴染みある表現として話されることがあります。

ご参考までに、僕がやらせてもらっているワークショップが何なのか、その一面を簡単に説明するならば、このような単純な言葉の印象と、呼吸の本質が如何にかけ離れたものであるかを体感して頂いているようなものです。

特に“胸式呼吸が浅くて腹式呼吸が深く本格的な呼吸である”などと軽々しいことは言わなくなる、それどころか、“腹式呼吸”という言葉そのものが現在形のボキャブラリーとしては機能しなくなると思います。

呼吸の本質に少しでも触れたなら、腹式呼吸などといった表現は、自分の中からは一切浮上して来なくなるでしょう。

何年か前は時々合唱連盟とか、アマチュアやプロの声楽の団体に一日講師として招かれていたこともあります。

それらはお腹でしっかりと息や声を支えるとか、教えちゃったり教えられてしまったりしている人が多い団体、そんな印象を受けていて、あながちその印象は間違いではなかったように思います。

そんな人達が実践したり目指したりしているように、仮に本当に息や声をお腹で支えるとしましょう。

しかし、お腹が宙にぽっかりと浮かんでいる訳では無いですから、ではそのお腹は何が支えてるのかと、順を追って見ていけば自ずと本当に支える土台にまで意識が向くと思うのですが、どうやらそうはならない様子でした。

「声を出している時、お腹は出っ張るんですか、引っ込むんですか」とか、「最近歌の為に腹筋運動を始めました」とか、素晴らしい笑顔で言って頂いて、何も言えなくて困ったこともありました。

そんな方々に「スケートリンクや泥沼の上でもお腹で上手く支えられますか」という問い掛けをしても、却って意味が分からなくて混乱するような有り様で。

もしそのような対話がスマートに成り立ったなら、本質的な呼吸の源とは、何を何処を、どう大切にしなければならないかを鮮やかな印象と共に分かって頂けたかと思うのですが。

それでこの答、何を大切にするか、本質的な呼吸に出会う為には······、分かりますか。

僕は、例えばこのブログの読者さんが10人程とすると、全員間違った答を今頭に浮かべて居られるのではないかと思っています。

答え合わせはもう暫く後に、かなり先の記事ですることにして、今回先に伝えておきたい内容を纏めに掛かりたいと思います。

呼吸とは鼻や口ではなく、どうやら首から下の体で営んでいるようだ、で、それに加えて、でも、胸か腹のどちらかとか、その両方の配分とか、そんな単純なことでは済まされない、もっともっと玄妙なるものなのではないかということです。

次はそこのところを、もう少し詳しく繙いてみます。

今回、変な例えがありましたね、体にピッタリの型に嵌められたら息が出来ないという空想。その状態で、例えば片方の手首とか足首だけ、その型枠から解放したらどうなると思いますか。もっと細かくすると、一本の指先だけ、とか。その時、呼吸はどうなると思いますか。

色んなご質問も、お待ちしております。

↓下記HP内、メールアドレスからワンクリックでお願い致します↓

https://tonus-mn.jimdofree.com/