呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

具体的な呼吸の説明の前に是非この内容もどうぞ

石ノ森章太郎さんの原作で仮面ライダーという作品があります。当時は石森章太郎さんでしたが。

子供の頃、その最終回で敵のアジトの中枢部まで攻め入ると、何とそこには培養された巨大な脳があって、その脳の化け物が首領の正体だったというオチが印象的でした。

優れたSFの作家は未来像を的確に描写するものですが、石ノ森さんもその一人だなぁーと感心しますね、今の世の中に暮らしていると。

僕は近い将来、脳波そのものの固有周波数或いは振動数が、今で言うところのマイナンバーのような形で超個人情報となって、その周波数に合わせて色々な情報を直接出し入れする世の中が来ると予測しています。

映画や音楽等の観賞形の娯楽も、アトラクション形のものも、今はゴーグルを装着したりしてバーチャル形が普及してますが、そんな生易しいものではなくて、脳波を刺激する超微細な振動を伝達することで、一瞬にしてもう済んだ状態になってしまう、映画なら一瞬で映画を観終わった状態、絶叫マシーンなら一瞬でそのマシーンを体験済みの状態になっている、そんな世の中が来てしまうんじゃないかと想像しているのです。

下手をすると生命維持装置カプセルの中で麻酔で眠りながら、“理想の人生”というソフトを選んで一生を過ごす、そんな選択肢も生まれ得るのではないかと、そして中にはそれを選択する人も居るだろうなと、勝手に思っています。

指紋認証や静脈認証、虹彩認証のような感じで、脳波そのものが個人の認証にもなり、更には体を介さずにそのまま情報を受け取ってしまう、正に人類総ショッカーの首領状態、いや違う、あれは何だか訳の分からない配線が脳や脳を浸けてある容器と繋がっていて、めちゃくちゃアナログだったような、まあでもそんな細かい事は今は置いといて、益々頭の中の妄想に偏った世の中となる、そういうことです。

ウェアラブル端末を体に埋め込むやり方は既に行われていますが、そんなことすら古いと言われる時代に直ぐになるのではないでしょうか。

ハッキング、今でも洒落にならないことですが、脳波に直接となると、もう、恐ろしいですね。

催眠や洗脳をより具体的な電気信号に置き換えて、悪用もより簡単となってしまう、そういうことですから。

AIが将棋を指すと、やっぱりAI特有とも言える、プロの棋士とは全く違った、所謂セオリー無視というような手を打つようです。

そんなAIはもう人間の健康にもアドバイスし始めています。

人間が人間の心身の叡智、本当の意味での知慧によって健康を考えるとき、本末転倒なアイデアは絶対に出さないという確信がありますが、AIだとどうなのでしょう。AIは呼吸を必要とはしないので、そこが心配です。

それで、もしも本当にそのような大切な何かの欠落をAIがやらかす可能性がある時にそれをチェックする人間が、しっかりと本来の呼吸という、命の基本とも言える営みを蔑ろにしてはいないかどうか、机上の空論先行、コンピューターの奴隷に成り下がっていないかどうかは非常に重要な、生き残りへの分岐点となるように思います。

タツノコプロダクションの昔の作品に、新造人間キャシャーンというのがありまして、あれは確か、人間の為に働くように大量生産されたロボットやアンドロイドが反乱を起こすという内容でした。

機械類は、酸素が無い方が長持ちしそうに思うのですがどうなんでしょうか。金属にとって酸化は大敵で、電球で言いますと酸素がある為にフィラメントは消耗し焼けてしまいます。

生物の元々の命の成り立ちを辿ってみれば酸は毒で、今でも酸化は良くないことのようですが、遠い遠い昔に呼吸で酸素を細胞に届けないと死滅してしまうシステムに変更し、環境に適応し生き残る道を選んだようですから当然酸素は必要です。

人類や地球や宇宙について大切な決断や選択を迫られた時、人間の持つ叡智、本当の意味での知慧にしか大事な答は導き出せないと僕は思うのです。

僕はスティーブ・ジョブズという人が何故あんなに尊敬されるのか今一つ理解出来ません。

坐禅や瞑想で心身を調え、あらゆる先進性のあるアイデアから新製品を産み出したということなんですけれども、瞑想状態から目を開くタイミングがちょっと早過ぎたのでは無いでしょうか。

便利中毒を世界中に蔓延させて、恐らくは脳にも、たった今僕も脳を消耗させながらこのブログを打ち込んでるのですが、かなりのダメージを与え続けているこんな機械が、本当に人間の魂の深い所から出て来る筈が無いでしょう。

もうほんの少しでもあの人が長く目を閉じてくれていたら、この便利の先には人間の本当の幸福は無いという答にまで到達出来ていたかも知れません。

このようなブログもオンラインワークショップも、媒体となっている機械がもたらす多少なりともの疲労を越える内容であることが必要で(その割にはブログではしょっちゅうふざけてますけどね)、その矛盾や葛藤には常に気を配りながらの活動となっています。

石ノ森章太郎さんの名前を出だしで書いた時にはほんの前置きの積もりで、直ぐに最近の記事との連結を書き進めようとしていたのですが、このように長い有り様で、次回に仕切り直します。

こんな事をだらだらと書かなければ、理解者と思い込んでいた人達が少しずつ離れて行ってしまう中で、何故自分がこんなに細々と呼吸というものに携わり続けなければならないのかをこの時点で一度確認したかったのでしょう。

きっと次回は前回や前々回のつづきへとスムーズに入って行けると思います。