広島の皆さんにお世話になってから、もう一週間経ちました。
今日は午前と午後の2回、いつものオンラインワークショップを行いました。今回参加者は2名でした。
最近のワークで前面に出て来る感覚は、何処か体の一ヵ所にアプローチしている時も、それは常に体全部や体の周囲まで含めた全体へのアプローチであることです。
呼吸の要点の端的な表現の一つとして、「呼吸器官だけを孤立させないこと」が挙げられます。
解剖生理学で呼吸に直接携わる器官と言えば余り多くは無いのでしょうが、実際には呼吸器官と呼ばれる以外の体全部が如何に呼吸という営みを無視せず協力的であるかが非常に重要です。
なので、「空気は肺にしか入らない(なのでお腹なんか関係無い)」と考えたり、「お腹も大事だからお腹でしっかりと支えなければならない」と考えたり、これらはどちらも自分一人で納得してやってもらう分には勝手ですが、他人に決して押し付けてもらいたくないやり方です。
何故かと言うと、そんな無責任な教えを真に受けて努力を重ねてしまったばっかりに呼吸や声の調子を崩した方々のケアを度々して来て、一度身に付けてしまった間違った癖は、一生取れないんじゃないかと途方に暮れる程に大変だと、何度も何度も感じたからです。それで、前言撤回です。やっぱり自分一人で納得して勝手にもやらないでもらいたい。その人も巡り巡ってケアする羽目にならないとも限らないから、尻拭いは御免です、御免なさい。
あ、こんな愚痴を書く積もりではありませんでした。
呼吸器官を孤立させては本来の呼吸が成立しないのと似た感覚で、首や肩の凝りや疲れを解そうとする時に、首や肩を体の他の部位と分けてアプローチしないことが大切だと常々感じています。
首や肩を動かしながらも、隣り合った部分から段々と視野を広げ動きの裾野を広げて、頭の天辺から足先や足の裏までの微細な繋がりを捉え認識することが肝要です。
さて、ここまでが前置きだとしたら、長くなりそうですね。面倒臭くなった方はどうぞこの辺で読むのを止めてください。
そんな風にして、ついつい重かったり疲れが把握し易い箇所に目が向き勝ちなのを敢えて全体として捉えることで、呼吸も豊かに復元されることはよくあります。
Zoomの画面越しに皆さんと対面した瞬間にそんなやり取りが流れ始めて、自分自身も一緒にその流れに乗せて頂いて、その流れから見えて来る景色をレポートするような感覚で新しいワークが降りて来たり体の深い処で極めて簡単な言葉が新鮮さを伴って見付かったりします。
なので、朝の10時半頃にワークショップが始まった時には想像も出来なかったような状態に、14時半とか15時頃にはなってしまっています。
時にはまるで色んな宗派という概念を越えるような宗教的な感覚で体は語り出しますし、時には哲学的でもあり、物凄く普遍的だと感じさせる場合もあります。
訳が分からないのに何故か懐かしい景色に出会ったり、或る日書物で読んだことが突然腑に落ちたり、そんな時にワークショップのオーガナイザーとしての“僕”はもうそこには居ません。何かを伝える媒体、エネルギーのバイパス、筒······。
とまぁ、最近はこんな不思議な時間が益々多くなっています。
今これを途中で投げ出さずに読み進めてくださった貴方がもし今日のワークショップに参加して居られたら、今日のワークショップと同じにはなっていません、それはそれは色んな意味合いで。
これは余りにも当たり前の事実ですが、とても大事なことです。
いつどんな時もその時そこに集まった人と、その時その場を包んでいる世間の情勢も含めた空気全般が、新しいワークを創り出して行きます。