呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

前回の補足から書き始めて話を先へと進める積もりが補足だけで長くなり過ぎてまたつづきにしてしまった話

筋トレ等を行うジムにはパーソナルトレーナーという職種の方が居られると聞いたことがあります。

そういった方々の仕事の内容を殆んど把握してはいないのですが、その人達はきっと、トレーニングしている本人が鍛えたい箇所を本当に鍛えられているかをチェックしてあげておられるのではないかと思います。

それ程に、自分の狙い通りに自分の体を細分化して意のままに作用させることは難しいことだと思います。

よくある運動で、シットアップと呼ばれる、俗に言う腹筋運動というのを皆さんもよくご存知なのではないでしょうか。

これとて、本当に効率よく腹筋(きっとこの場合は腹直筋を狙っていると思われますが)に効く動きを行うには相当な注意を必要とする筈です。

多くの場合、脇腹やお尻や胸や背中や首や肩や顔面の筋肉まで駆使し、勿論、回数が増えるにつれて体は更に“ズル”をし始めますから、呼吸を流さずに声帯というバルブを閉めて所謂“いきむ”ような感覚で、何とかノルマとして課した回数をこなそうとするのが一般的な腹筋運動の実情です。

そのような時に、体がズルをしないように、腹直筋なら腹直筋にだけ、意識と効果が届くように運動神経に注意喚起してあげるのがパーソナルトレーナーさん方の仕事なんだと思いますが、そんな風に、体を部分々々に分けて鍛えようとすることはかなり難しいことなのです。

一つ前の記事に書いた、お腹で支えているように感じるやり方で発声持続時間を伸長させたり、しっかりとした声を出そうとしている時に、更にはピアニッシモのような極めて繊細な音を持続させるような時にも、本当に体の中で起こっていることに注意が必要な理由とはそういうことです。

関係ないところにまで及んでしまっている力感や緊張が、結果としても本当に何の関係も無く過ぎ去ってくれるのなら良いですが、やっぱり何らかの影響を残してしまうことが多いと思います。

部分々々に分けて体を鍛えたり活性化させるのは難しい。

この中には“骨盤底”や“骨盤底筋(群)”と呼ばれるようなものも含まれるでしょう。

大事な場所であることを発見したり気付いたり教わったりしたからといって、そこだけを集中的に活性化させたり鍛えたりすることは、総合的なバランスの面からはあまり良いとは感じられません。

出来れば分けずに全体のバランスを整えながら総合的に育んでゆくのが望ましい。

だからこの記事の冒頭から述べている腹筋なら腹筋を本当に狙って純度高く鍛えたりすることの必要性を僕は感じていませんし推奨もしてません。

ならば、パーソナルトレーナーさん方に注意喚起してもらわないパターン、体がズルをして、体全部で腹筋運動をしている状態は実は素晴らしい状態ではないのかと疑問が出て来そうですが、いくら全体で協力すると言いましても今度は能動的な働きを持っての協力と、静観するように弛緩してじっとしてくれていることが協力になるということと、更には能動的なら能動的で、その関わりの度合いの違いをも含めての全体ということになりますから、話はそう単純ではありません。

但しこの、単純ではないように今は感じてしまう、このややこしい文章のせいで複雑に感じさせてしまっている全体のバランスは、実際に体感してしまった時、出来てしまった時にはこの上なく簡潔で単純なことと感じる筈です。

話を戻しますと、どんな活動や営みでも、関与する全てが総合的に絶妙の関係性を持って進んで行くことが大切で、それを妨げることには一切手を出さない方が身のためだと思っています。

部分的にアプローチすることは難しいし、例えその難しさを克服して成し遂げたとしても、結果的にバランスを崩すだけなので最初からやらない方が良いということです。

部分々々で分けた個別のアプローチでは、必ず各々の部位での進捗状況に誤差が生まれます。

皆さんは左折専用レーンや右折専用レーンで信号待ちしている車のウインカーを観察したことはありますか。

また、踏み切りの警報音、あれは殆んどの場所で対面で各々のスピーカーから各々の音が出ているのですが、聞き入ったことはありますか。

これらウインカーは点滅の、警報音では“カン カン······”という音の、間隔とリズムが一つ々々全て微妙に違います。

なので、バラバラだからこそ、繰り返されているそれらリズムが周期的に全部がピッタリのタイミングで揃う瞬間があるのです。

しかし、また直ぐに段々とそのタイミングはズレてゆきます。

ウインカーや警報音は、もし信号待ちや踏み切りの遮断時間が長ければ、またピッタリと揃ったりまたバラバラになったりを繰り返すだけで済みますが、体を鍛えたり何かの技術的な進歩に於いてはちょっと違います。

体の各部を別々にトレーニングし、その発達や成長のタイミングがピッタリと合って来たような時期には物凄いハイパフォーマンスが実現するなどの達成感を得られる可能性があります。

しかし、その進捗速度が各部位ずーっと揃うことは考えにくいので、そうなった時に人は、不調を感じます。

この間までの絶好調感から一転、何だかおかしい。出来ていたことすら出来なくなっている。

そもそも物事の調子や運行には波がありますからそれも当然ではありますが、このように本来一つに纏まった体というものを、人間の向上心という欲の一種でそのバランスを崩してしまったなら、この世界の道理の範囲内での好不調の波とは全然違う不調を感じることもあるということです。

スポーツでも芸事でも、真剣にやっているほど鍛練も真剣でしょうから、その結果、もしもズレが生じてしまったら、それはそれは大変なことなんです。

そういうこともあって、やっと前回からの話にスッキリ繋がる感じになりますが、殊更にお腹を息や声の支えと設定して、そこに特別な意識や負荷を与えたりすることも長い目で見ると良くないこととなります。

前回の補足から書き始めようと思い立った今回の記事ですが、補足がえらい長くなってます。

今後、これらの文面全てが、息や声の支えがお腹でも無く、更に足(脚)でもまだまだ浅いという理由や、少し前に書いた、呼吸のワークショップがその場その場の行き当たりばったりのようでいて、何故ハチャメチャにならないのか、星のように方向を指し示してくれている動かしようのない“答”へと、繋がってゆきます。