ある程度地面から見て垂直な位置関係に体を立てて、脱力すると広がるエリアは背中。
上体の力を抜いてダラッとすることは多くの人に取って特別に難しいことでは無いと思いますが、そのことが即ち体に空気を取り入れることにもなっているのを意識して体験するとなると、難しくなってしまう人が必ず出て来ます。
生きている間中の殆どを占める普段の普通の呼吸、僕の言い方で言うところの切り替わってない方の呼吸ならば、ただじっとして自分の呼吸を感じられるようになれば、いつでも何処でも実感することが可能です。
しかし、切り替わった方の呼吸とは、極論すれば自分の呼吸を確認するよりも重要な、エネルギーをアウトプットするべき何らかの必要性に駆られて反応し発動するものですから、それを実際には何かをアウトプットしなければならない事態でもない時に擬似的に再現するのは難しくても当然、仮に出来なかったとしても何ら気に病むことの無い話です。
だから、前にも同じ事に触れましたが、声や歌やその他の表現へと繋げる為の呼吸のワークショップと銘打って皆さんとやり取りをする際に、一体何をして差し上げれば良いのかは永遠の大命題とも言える悩みとなります。
その方が全てをなげうって何かを伝えなければならない相手でもない僕の前で如何にもそれと同じシチュエーションであるかのように振る舞ってもらって、しかもそれがそこそこ上手く出来てしまった日には、僕はその人をそそのかして嘘をつくテクニックを吹き込んだことになってしまいます。
それは僕の本意ではありませんし、参加する方も、そのようなことに引っ掛かってはいけないのです。
それでも僕みたいな変人では無い全ての参加者は、僕が今、本意ではないと述べた方法を至極当たり前のように求めて来られます。
それが、常識的なレッスンというもののようです。
そして、かなり多くの方が、練習ではかなりリラックス出来るようになったものの、やっぱり本番では緊張してしまうと訴えます。
これは、冷静に判断すればある意味当たり前のことと言えます。
さて、そうすると今、現時点で例えば僕がワークショップで皆さんにご提供・ご提案出来ることとは一体全体何なのか。
本当に呼吸が切り替わる意味、そして、その切り替わった時に最も目に見えて変化している体の部位に付いて、説明しながら感じてもらう、そんなこと位なんです、少なくとも今のところは。
そしてこの、本当に呼吸が切り替わる意味、これは言い替えるなら、切り替わってない呼吸の時に切り替わってない呼吸をどれだけ大切に、ひたすら只ひたすら味わえるか、その一点に掛かっている、そのことが、最近になって確信的実感となって浮上して来たのです。
大事なのは、シュミレーションなんかでは絶対に無い、ということです。