呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

大真面目だからこそのレッスンが孕むどうしても避けられない矛盾

今は極力、意識してワークショップという言い方をしています。

以前、法人でやっていた頃は特に何も考えずにレッスンと言ってました。

やってることは変わらないと言えば変わらないかも知れませんが、今の方がより場を通してお互いに気付きや学びを深めている自覚があり、こちらが一方的に何かを教えている感じは全くないので、レッスンという呼び名がしっくり来ないということです。

法人の頃からそうだったように、表現に昇華する為に呼吸を改めて捉え直すことを目的とした集まりがこの呼吸のワークショップの大事な一面です。

それで一人で歩み始めた時、呼吸が切り替わることに焦点を当てることを重要視しましたのでブログのタイトルがそのようになった次第です。

昨年末に掛けて長文で説明しまくっていたのは切り替わってない方の呼吸、つまり、積極的に何かを表現するには相応しくない方の、ただ単純に生命を維持し、言わば保守的に健康な肉体(には健全な精神も宿る)を保ってゆく為の普通の呼吸の話でした。

それで、勿論その切り替わってない方の呼吸をレッスンの時間内ずっとやり続けたって良いんです。

寧ろ本当に厳密に表現へと辿り着きたいならば、そのような普通の呼吸の充実、つまり、本当に本当の意味で自分を癒し大切にしてあげられて初めて他への働き掛けが成立する、という唯一の道を歩むのが王道だと確信するものです。

けれども、そんな頑固で意固地なことを主張するばかりが良いことでは無くて、単純に、話している人と話を聞いている人とでは呼吸が逆だと考えてもらえればそれはそれで話も早くて良いのです。

呼吸が逆とはどのように逆なのかはまた別の記事にて詳しく書かせて頂きますが、これを元に考えると、表現のレッスンに如何に歪みが生じるかは簡単に説明出来てしまいます。

表現の為のレッスンに集って来られる方はどうすれば滞りなく素直な表現が出来るようになるかを“聞きに来ている”のです。

↑この矛盾にお気付きでしょうか。

レッスンの集まりの中で、その場に於ける純粋な表現者は唯一講師、インストラクター、先生、指導者、といった立場の人です。

その立場の人が、表現を身に付けたいと思って実はお話を“聞きに来ている”人に対して、今仮に何か表現する立場になったとしたらという、あくまでも仮定で知識と技術を疑似体験してもらうというのがレッスンの厳密なる正体です。

なので、特に法人の頃には、如何にもレッスンらしい形を成す為という意味合いでも仕方なく切り替わった方の呼吸をレクチャーしながらも、「これを今日の皆さんが上手く出来ることが果たして皆さんの将来に取って本当に良いことなのかどうかは分からない」という思いで、時には本当にそのように口頭で伝えながらワークをやっていました。

これは、ちょっと神経質過ぎる話ではありますが、シビアにシビアにレッスンというものを整理すると、実はこんなおかしな矛盾を孕んでいるのが理解されます。

それでは本当は一体何が大切な事なのか。

例えばこんなお話で今回の記事を終わらせてゆきたいと思います。

仰向けに寝転んで、お腹、下腹部辺りに手を置いたり、辞書のような分厚い本を置いたりして、息を吸い込んだ時にそれらが持ち上がるのを観察し実感しながら呼吸する。慣れて来たらなるべく細く長く息を吐いてゆく。その体と息の使い方で発声してみる。それを体に良く記憶させて立った状態で応用する。これが発声の基本。

これは、息を吸えば吸う程に膨張感·緊張感が高まり、つまりお腹周りがパッツンパッツンの状態となり、息を吐く時にはそれを解放することを最も体が欲する状態となってしまいます。

膨張の折り返しでひたすら弛んで萎む方向にエネルギーは推移するのが自然な状態です。

これは、切り替わってない方の呼吸の、しかも効率の悪いバージョンを繰り返し体に強いているだけの状態とも言えます。

弛んで萎むエネルギーには表現は乗りません、残念ながら。

なので、どんなレッスンをすれば良いのかというと、先ずは、自然に切り替わる呼吸の邪魔をするような余計な情報を与えないことです(←何をすれば良いのかの答にはなってないけど)。

それで、レッスンの場に於ける唯一の純粋な表現者である講師の話を聞いている時の呼吸と、幸運にも何か質問がしたくなって、勇気を持って質問した時の呼吸のパターンが180度逆であることが認識出来たならば、それはそれは素晴らしい経験を得たことになります。

レッスンが終わって、率直な意見や感想を述べることが出来たのなら、その時の呼吸も、話を聞いている時の呼吸とは違う、切り替わった方の呼吸であるので、それを確かめ味わうことは、「今実際に舞台に立っている積もりで、これから説明するような体の使い方で呼吸してみてください」等と促されてそれらしい事をやるよりも、計り知れない程の価値があるでしょう。

仮にやってみることなんて上手く出来ない方が、純粋な表現の為にはよっぽど良いことではないでしょうか。

表現のレッスンというのがもし本当に成立するのだとしたら、それは、呼吸が切り替わるのを如何に邪魔しないかということを伝えること、言い替えると、それを邪魔するような誤った情報を、レッスン時間の穴埋め、暇潰しにむやみに伝えまくらないことだと思います。

この話は、手厳し過ぎますか。