呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

皆さんが消化し切れない位にテンポ良くが理想

物凄く良く表現出来ているとはどういうことなのか。

それは一体何をどんな風に表現しているのか。

これまた大変な問題へと先行きも考えずに踏み込んで行こうとしています。

陰と陽の摂理を無視しての活動など、この世の中にはきっとざらにあるのでしょう。

身近なところでは肩凝りや腰痛に不眠やアレルギーとか色んなリミッターが出現して、何か違ってませんかというメッセージを投げ掛け続けています。

能動的に、必要性を感じている(本当にそんなにも必要なのかどうかは別にして)分量の空気を充分に吸い込んで、更に続けて能動的に呼気というエネルギーを放出する。

本来であれば能動的に空気を取り入れたならその次は力を解放して弾力や重力に任せて息を排出するのが最も自然で、そうしていれば元々命を効率良く維持する為の営みである呼吸をすることで疲れるという矛盾した現象は起きません。

ところが、その自然の効率の方を採らないで能動性の連続を人々はよくやっています。

世の中で商業的に成功していて名声を得ている殆んどの人達も、実際そのように“頑張って”らっしゃるパターンも多いのではないかと思います。

何しろ、意識的に息を吸い込んで、本当は弛みたがっているターンで矢継ぎ早にまた新しい力を使って何かを支える訳ですから、「働いてる感、自分はよくやってる感、誉めてあげたり誉めてもらえたりしそうな充実感」で満たされるように思います。

そのような傾向のエネルギーが、これまでの人類の歴史の大きな一端を担って来た点は大いにあるのでしょう。

その結果が良くも悪くも今であることは認めざるを得ません。

それで、ここまでの文脈から段々と見え始めていることはと言いますと、僕がこんなに時間を掛けてまで伝えようとしている、“物凄く良く表現出来ている時”とは、そのようなこととは違うということになって来ます。

大丈夫でしょうか。

答が先に決まってしまっている世界の人がいらっしゃって、例えば大相撲の力士として出世しようとするならば、一日一食とか二食でドカ食いして稽古では信じられないような負荷を全身に掛けて、ヒトという生物としての健康を度外視することが必須条件となり、ただの脂肪太りでは無いにせよ、肥満を求められることになります。

オペラという世界があって、あれは王様が自分の威厳を他の領土に誇示する為の道具として発展したという背景があります。

それが勃興し成熟してゆく時代と産業革命の時期も符号するように、人間がちょっと調子に乗り始めた時代、科学や文明の力でその内に自然をも凌駕し制御すら出来るという、ある種の希望をリアルに抱き始めた、その一つの象徴のようにしてあの様式があの歌い方が広まって行ったように僕は常々感じています。

これらは基本的には、僕がお伝えしているような呼吸、生命維持という根本的なことから繋がる自然で楽で負担の無い感覚を尊重していては賄い切れないような表現がそもそもの答なのだと思います。

外国育ちの外国人力士の立ち居振舞いや相撲の取り口そのものには常に「あれが力士と言えるのか、あれを相撲と言えるのか」といった声が付き纏います。

大関小錦は圧倒的な成績を残しても横綱には推挙されませんでした。

それを審議するオッサンやオバハンはバリバリの洋服を着て洋室の会議室で、髷を結ってふんどし姿、浴衣姿で異文化にチャレンジし奮闘している若者の人生を左右するのです。とまあ、それは置いときまして。

多分このオッサンやオバハンは結構頻繁にフランス料理とか食ってそうな感じですが、その口で毎日ちゃんこ鍋を食べている若者を審議するのです。とまあ、それは置いときまして。

多分中には外車に乗ってたりする奴も······。いやそもそも自動車自体が外国の文化でして。はい、もうやめときますね。

日本で生まれ育った日本人がオペラを歌ったり演じたりすると、本場で完璧に認められる為には相当な何かを補う必要性、苦労が見て取れるように思います。

横隔膜を力でグッと押し下げ目一杯押し拡げて、膝をグッと伸ばして大地に逆らって叫ぶように歌う人が多い世界だろうなと想像するのですが、そんな世界の中でも少なくとも僕の回りには僕がご提案するような呼吸と仲好くしながら淡々とマイペースで表現されている方も極々少数ではありますが居られます。

そもそもが僕のクライアントさんの数自体が極々少数なのですから、確率は大分高いということにはなります(笑)が、そのような方に対して僕は本当に感心してしまいます。

本当の表現。

俳優さんは皆泥棒や殺人の経験者なのかというとほぼ違う筈です。

これは役柄に限定された話のように感じるかも知れませんが、先程書いた異文化の話、表面上は根っ子が違うのに憧れの別の花を咲かせようとするような取り組みにも、本当は共通の話です。

呼吸の本当の深い深い処へ降りて行く、そして本当に深い処からの折り返しのエネルギーに目を背けること無く賭けてみる、これこそが、本当の表現への唯一で最速の近道だと思うのです。

小錦の話を挟んだせいもあってかなりのスペースを消費してしまいました。

つづきはなる早で、ちょっととっ散らかった内容を整理する意味もこめまして。