呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

🍳“呼吸炒め”始めました🍳

やっぱり鍋は冬に限る、なので呼吸鍋は暫くお休みで、今日からは“呼吸炒め”に変わります。

但しこの何気なく出だしに書いた“やっぱり鍋は冬に限る”というたった一言を自分で書いて自分で後悔する、そんな壮大なテーマがこの後に展開されようとは。

 

ここ最近はこれまで当たり前と勝手に思い込んでいた物事が悉く単なる幸運の積み重ねでしかなく、本当の安定などというのは実際には無くて、都合の良い幻想であったことが否応なしに再認識されています。

副産物的には、仕方無しに始めたオンラインセッションは古い安アパート故の不自由さは激しくあるにしても、奇しくも我が家がそのまま発信場所となり、外部にスペースを求めて予約等を一切気にする必要もなくなり、サロンを構えて基本全部自分で決められるという、“本当のフリー”をやっと味わえている🎵という爽快さはあります。

しかし、肝心なのはそんなことを抜きにしての話ですが、今の世情は僕のやらせてもらっている活動に関しては100%チャンスです。

チャンスといってもこの機に乗じて一儲け、では無いことはこの惨状(笑)を見れば何方にも分かってもらえますが、これまでやって来たことが生きる為に実際に活かせるかを確かめるチャンスということです。

自らが実践出来ているか、例えたった一人にでも良いから伝わっているか。

僕はフリーになる前に所属、というよりも発足時から参画させてもらった団体での最初の会議で、そこに集まった人達が本当にこれから一緒にやって行ける人達かどうかを確認するということをやりました。

それは、物凄く長い長い目で見て、この団体での活動が世の中に本当に浸透した時に、世代を越えて殆んどDNAと同じレベルで受け継がれて行くようになった時、この団体はその役割を終えて最早存在する必要すら無くなりますが、現代のようにテクノロジーに依存することで自らの生命力そのものはどんどん衰える傾向と言わざるを得ない世の中に於いて、この活動が必要なくなることは到底考えられないにしても、遠く遥かに遠く目指す処としては、決して団体の名誉や繁栄そのものでは無いという考えを受け容れられますか?と問い掛けたのです。

つまり、自分達が一番得意と思っている仕事が無くなるように努力するという矛盾を運命的に孕んだ仕事に就いているということを自覚していますか?という意味の問い掛けです。

周りの反応は露骨で、眉間に皺を寄せるという分かり易いものでした。

稼ぐ為に医者が病気や病人を増やす等とは信じたくない筋書きですが、そのようなことがあながち単なるでたらめではない世の中に今(もしかしたら昔から)生きています。

もしもウルトラマンが平和で平穏な時に、「暇やから怪獣現れてくれへんかなぁー」って呟いたらヒーローでは無くなるということを、分かってくれる人はその団体には居なかったということです。

 

活殺自在という言葉があります。

僕達が生きていく力がしっかりと発揮発現されている時、それは、周りの環境や関係性全てから見て、活殺自在では無い、寿命は別として自分の生き死には自分で掌握出来ている解放された存在であると言えます。

蛇に睨まれた蛙とは真逆の状態ということです。

相手から活殺自在と見なされている時、つまり一つの命として最早自立出来ていない状態に陥っている時、その人には一体何が起きているのでしょうか。

それは、拘りです。

「○○をするにはやっぱり△△が無いとね!」とか、「どこそこの場所でやらせてもらえなかったからその時点でテンションダダ下がり」とか言うのもその、拘りがもたらすマイナス要因です。最近の僕の経験ではライブで歌ってる最中に目の前で喋りまくられて恥ずかしい話ながら半切れで歌ったこと等も、ある意味拘りの成せることです。

条件次第でころころ力に差が出てしまう、こんな状態が一番“弱い”状態です。

本当は、そのような拘りから解放される為の工夫が、呼吸を元にした色々なワークの隅々に端々にど真ん中に織り込まれ染み込んでいます。

それをこんな所で文字で解説してしまうことは、それを読む人から本当に学ぶ権利というものをその瞬間から永久に剥奪する最低最悪の罪です。なのでそんな馬鹿なことは絶対にしませんが、肝心なのは一つのワークに関してその都度コツを伝えたり解説をしている時でも、それが最終的な解ではないということなんです。

僕が修行時代に(※今も修行中で下積み時代みたいなもんですけどね)近くに居た人達は皆、最終的な解の前の、そのまんまそのワークの解説までで終わっていて、勿論この記事の前の方に登場した、団体所属時代に近くで働いていた人達も全く同様に、更に深く深く感覚の奥の奥にある押しも押されもせぬ真理のようなものへの接点に目覚めたように気付くことは無理なようでした、何度も幾つかの方法で刺激して促しても、やっぱり駄目だったようです。

このワークは一体何か?このワークでこうなるということは、即ち、こんな時にはこうなる筈!という感じで雷に打たれたように突然、でも必然的にハッと気付く、そこに実生活、ほんの些細な日常に繋がる本当の意味が見えて来るのです。

どんなに突飛な閃きで特異に見えるようなワークでも、この地球上でやっている以上外せそうもない事柄と言えば空気と重力が思い浮かびます。

実際、呼吸のワークな訳ですから空気と関係無しには進みそうも無いですし、重力に下方から引っ張られているという(多分)事実を有効活用することが、大雑把に言ってしまえば全てのワークの胆になっていると言えます。

それで単純に考えると、そこで研いた感覚で、例えばそのままスペースシャトル無重力のような状態に放り込まれたら、それまで培ったものが何の役にも立たないということになってしまいます。

しかし、ワークの一つ々々に付いて、「こんなタイミングでこういう風に動いたらこんな感覚になる、ということは、即ち、こっちの状態の時には自然とこうなる!」というところまで感覚が開いて深く掘削出来ていれば、「通常の重力状態ではこうであったなら、この無重力状態での解はこうだ!」と、心身が反応する、それが本当の理解です。

重力に柔軟に対応する、そのスキルを研ぎ澄ますことは、重力圏以外ではからっきし駄目な人間を養成することであっては意味がないのに、多くの人はワークをそのような拘りに繋げて解釈してしまっています。それは違うんです。

で、それでは勿体無いのは分かっているけど、でもそこを一つ々々事細かに具体的に説明することが、人が成長する権利を奪い取ってしまう最も重大な罪だということなんです。

そこを、説明など無しに是非気付いてもらいたい。そこに気付いた人に出逢った時に初めて、孤独から解放されそうな気が、ずっと前からしています。

呼吸のワークとは切り離せないセットのように、インプロヴィゼーション(即興)という遊びもよくセッションに取り入れます。

これなど拘りからの解放に最適な遊びですが、それでも多くの人が“インプロ”という型に嵌まってしまうから恐ろしいです。

~~せねばならない、~~であらねばならない、といった一切の硬さから脱却せねばならない······という大いなる矛盾に気付いて一度は身動きが取れないところを更に打ち破るところまで進んでもらいたい、といつも願っています。

インプロの楽しさを知ったら普通の既存曲はつまらなくて歌えない、というようなトラップに捕まることさえしばしば起きる位、何処かで感覚の進度を止めないことには落ち着けないのが多くの人のパターンです。

そこで止めない、止まらないことが拘りから解放されることなんです。

よく知っている既存の曲は、インプロヴィゼーションを経た後には最早、既知の曲としては歌えません。それがインプロヴィゼーションを経験した、ということなんです。

既知の曲はもう過去にしかなくて、今更手なんか届かない、これから歌う歌は、いつも今初めて歌うものです。

いくら練習しても、練習として歌った歌は過去の歌で、今から歌うのはいつでも今初めて歌う一回切りの歌です。

そこに気付くことが、インプロヴィゼーションです。

そこに気付かずに、今の感覚を適当に声や動きで表現出来るようになったとしても、それはそのようなコツを掴んで、インプロっ“ぽい”自分流の型を繰り返しているだけなんです。

 

今年の始め頃に少し体調を崩したのが切っ掛けで食生活を見直して、そこで呼吸鍋を連日食べることになりました。

しかし、これは他の食べ物は一切受け付けないというのとは全く違います。それは、呼吸鍋がそんな言うほど美味しくないからです······って、違うわ!

例えば、自然災害で被災でもして避難所生活を余儀なくされたとします。そんな時に「呼吸鍋作らせてくれや!あれが無いと俺あかんねん💢」って、僕、言いそうな感じします?あ、意外と言うかも。まぁそれはそれとして。

そんなことじゃなく、色んな善意と行動力の賜物としてやっと届いたインスタントラーメンを“ありがたく”頂くことが素直で自然で感謝して“生きる”ことに繋がると思うのですが、どうでしょう。

「そんな添加物の塊を食してまで繋いだ命など未来に取って何の価値も無い。そんなもので只単に命を長引かせる位なら食べずに“本物”の食材にありつけるまで私は我慢します」というなら僕はその人を否定はしません。もしその人が「こんな添加物と塩分の宝石箱なんか喰えるかーっ!」(『まんぷく』ファンだった人、ゴメンナサイ)と言ってせっかくの食べ物を地面に棄てでもしたら間違いなく張り倒しますが、そうじゃなく、お腹を空かせている人に自分の分を分け与えてあげたなら、より弱り果てた人の助けになります。

食事に関して色々な制限を課すことが増えた世の中で、特にアレルギー体質では無くても、例えば小麦を一切口にしない、市販のパンは食べない等で心身の浄化を多くの方が心掛けるようになりました。

それは、今言ったような極限状態で食物の選択肢が無くなった時に、普段どんなに栄養価が少なく見えて寧ろ毒にさえなりうる食品からでも、必要な栄養素を取捨選別し更に解毒する身体内部の能力を必要な時には発令させて生き延びる力に繋がる、そんな行為なのか、それとも、この条件以外では生きられないという限定された状態を敢えて作り、これまで絶滅してしまった夥しい数の種のような美しくも儚い命、環境の変化に適応出来ない体を体現されようとしているのか、そのどちらなのかを心配するという、ちょっとした余計なお節介も焼いてしまいます。

昔のSF作品では、よその星に宇宙船の故障か何かで漂着してしまった人間が、地球とは違う過酷な状況下で生き抜いた(生き抜いてしまった!)結果、恐ろしい姿形に変化して、最早人間ではなくなってしまう、といったストーリーがよくありましたが、添加物で何とか命を繋ぐことがそういったストーリーに直結する感覚があって、人としての誇りを侵害するとまで感じる人が居たら、それはそれで尊重すべきことかも知れません。

猿から人間に進化したことが今挙げたSFのストーリーで生き延びたことと同じこと、その時点でもう既に誇りを捨てているのかも知れませんが、実際はそうではなく、人間が本当の“進化”の賜物であることを、皆の生き方でこれから証明して行かねばなりません←あっ、拘ってる!(←※これ大事ですが、こんなことを真顔で指摘する人たまに現れます。この指摘が始まり出すと、命の肯定という方向性と屁理屈の揚げ足取りとの違いを冷静に吟味する必要が出て来ますね。ただ神経質で理屈っぽいだけの人と本当に頭の良い人との違いを見分ける感覚とでも言いましょうか···)

 

······物凄い回り道でしたが、でも僕は僕のワークであらゆる拘りから解放されて、その時々の状況下でいつも心身が最適解を即座に見付けてくれて、その状況の中でも何とか生きて活動出来ることへの喜びを表現する、そんなメッセージをお伝えしている積もりです。

 

呼吸はいつも新しい。似ているけれどもさっきの呼吸と今の呼吸と次の呼吸は全部違う、その次もその次もまたその次も、全部まっさらで代えの利かない新品。

でも同時に、この星固有のバランスの中に生命が誕生した瞬間から数えると気が遠くなる程の時空を越えて脈々と受け継がれる同じ一つの呼吸とも言えるのです。

状況はいつも、この今もずっと変わり続けています。

そこを、そんなこと実感しながら生きているのは面倒臭くて不安しかないから無いことにしているのが“普通”の生き方です。

しかし、状況はいつも変化しているという事実の中に飛び込んだ時、一見不安で不安定と思える事実を勇気を持って見ることが出来た時に、そこには鍛えれば強く大きくなる筋肉や所謂“自力”と言われるように疲労し消耗するようなものとは全然違う真逆の本当の力が自分の中に既に宿っていたことに気付くことが叶います。

それをtonusと言います。

床を足で強く踏みしめることでtonusは生まれません。

それは自分で自分を床に縛り付けて自由を奪う、tonusとは真逆の行いです。

自意識で強く踏み込むことが如何に自然そのままの状態を蔑ろにする愚かな行為であるかに気付いた瞬間、純度の高いtonusが圧倒的な存在感と優しさでそこに現れるのです。

この世に産まれて来たという最深の能動性、このスタート地点に立ち返ることが大切です(産まれて来たことを能動と取るか受動と取るか、大きな分かれ道です)。

生きて行く為の方向性、矢印はその時点で既にはっきりと示されている筈なのです。

それが僕達の姿形、主に骨格に無理なく反映されていてメッセージとして表れており、既に準備は整っています。

床を強く踏む行為は、その資質を全て反故にしてしまうことです。

周りの環境から見て活殺自在の状況、人前で歌ったり話したりする時に緊張が過度に及んで声まで上ずってしまうのは、聴衆から見て自分が活殺自在の状況に陥っているということです。

自分の意識以外の尊い力と秩序がもう既に見事に働いてしまっている。それに気付いて認めること以外、僕のワークショップでは何もやりません。

そろそろ現時点での結論、着陸体制に入ります。

鍋は冬に限らない。

······。

流石にこれでは終われないか。

例えば今の状況下、オンラインでもワークに参加して頂くことを推奨していますが、ワークは生の対面に限らない→自分の中に本来備わっているものに気付けるならそれで良い→それなら対人であろうがオンラインであろうが他人のインストラクトを受けなくとも気付ける方法は身の周りにゴロゴロ転がっているのかも知れない←その通りです。呼吸のワークを受けないと何だか物足りない、元気が出ないという拘りからも行く行くは解放されてもらいたい、ワークショップや人から教えてもらう方式に拘る必要はありません。

僕のやらせてもらっているような活動は、僕の知名度が上がったり繁盛して繁栄することが目的ではありません。

但し残念ながら、こんな非力な活動でも必要とはしない世の中の実現にはまだまだ程遠いとは思います。

なので、ほんの少数でもありがたくご縁を頂いた皆さんの心身が本当にこんな活動を必要とはしなくなる時を目指してもう少し“頑張らずに”頑張ってみる積もりです。
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