呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

受け売りでは無い世界へ

学術会議で際立って新鮮な論文を発表すると、それがいつの誰の理論を元に組み立てられたものかとの話題が必ず出ると聞いたことがあります。

それで、物凄くレアなケースとして、本当にその発表者の完全純粋なオリジナルの理論が出て来ると、「いつの誰の理論を元に組み立てられたのか」との質問が出て、それに対して「いやいや、これは自分の全くのオリジナルです」と繰り返し答えても、事態を飲み込めない雰囲気になってしまうとも聞いたことがあります。

物凄く良く表現出来ているとはどういうことなのか、という問への答として、呼吸が切り替わっているかどうかがどのように関与しているのか、そもそも本当にそんなことが重要な意味合いで関与しているのかどうか、手掛かりになるのかどうかすらを、先回りしたようなしっかりとした根拠も持たずにこのブログは書き進めてしまっています。

これは、僕が普段やらせてもらっているワークショップの進め方とほぼ同じです。

ほぼ同じ、というのは、これは純粋な体や呼吸の動きの共有とはちょっと違う、文章という形態だから、ほぼ、と付けたのだと思います。

それで、この、文章という形態で結論がどうなるか全く予測不可能な書き出しをしてしまうという暴挙に出られた理由、何が背中を押したのかという話なのですが、それは、今の世の中間違ってる、ということだけは自信を持って言えるから、だということははっきりしています。

もしもこの一連の文章に見映えの良い結論が導き出されて、それが世の中の役に立つようなものであればそれはそれは結構なことなんでしょうけれど、逆に何の意味も成さないものであったとしても、今よりも社会情勢がこのちっぽけな雑文によってこれ以上悪くなることは考えられないという気楽さがある、ということです。

(僕の)調子が悪い時、自分の知らなかった情報が先に目や耳から入って来て、次の動きや発言に影響を与えてしまう、その情報に心身が絡み取られてしまう、そんな状態に陥ってしまっています。

調子が良い時、頭で考える前に浮上した感覚を躊躇い無く掬い取ってアウトプットして、その後からそれを再確認したり裏付けるような情報に出会ったり、尊敬していたり馴染みの深い筋の発言等にそっくりなものを認めたりということが続く、そういう波に乗っている状態にあります。

今このブログで取り組んでいる内容は、前者で無いのは当然のこととして、後者でも無い可能性が大です。

今回、前回からのつづきらしいことを一つ書かせて頂くならば、息を吸いながら物は投げられない、ということ。

正確には、息を吸いながら投げようと思えば投げられるけれども、やってみれば分かって頂けることですが、誰も好き好んでそんなことはやらない、ということです。

他にも、息を吸いながらバットやラケットやクラブやなんかでボールやシャトルは打てない、息を吸いながらボールは蹴れない、水泳や陸上競技で息を吸いながらスタートは切れない、相撲の立ち合いでは息を吸いながら突進出来ない。

ここまでは、さしたる問題ではありません。そんなことは考えたことが無かった、という方は結構たくさん居られるとは思いますが、ご自身でちょっとやってみてもらえれば直ぐにも確認可能でしょう。

ちょっと探究心旺盛でちょっと疑り深い方ならば、息を止める、息を詰めるパターンもあるのではとの疑問を持たれるかも知れませんが、そのパターンは実際に大いにあると思います。

しかしそのパターンの時でも、どちらかと言うと息を吐くタイミングで声帯を、ちょうどバルブを閉じるような使い方で堰き止めるということをやっているのだと思います。それで体の内圧を高めて普段よりも力のギアを急激に上げるという一つの方策を体が選んでいるのでしょう。

そのようなパターンも含めて考慮に入れても、先に挙げたような運動の時、ヒトは息を排出傾向かもしくはハッキリと息を吐いています。

それで、この部分で引っ掛かっていたくは無くて、皆さんにお付き合いして頂きたく取り上げたい事象は、そのインパクトの瞬間に息を吐いているということは、何処かのタイミングでその吐ける分だけの量の息を体に取り込んでいるということ、こっちの方です。

例えばピッチングであれば、ボールが指先から離れる瞬間、これをリリースポイントと言ったりしますが、息を排出傾向にあるということは、ピッチングのモーションの中で、その体の動きそのもので、何処かで息を取り込んでいるということになります。

スポーツ選手が練習の一環として呼吸法を取り入れることは一般的と思われますが、それは、このモーションのこのタイミングで「息を吸え」とかそういうことをやっている訳では無いと思います。

ボールを投げたり蹴ったりするインパクトの瞬間の直前に、体はその動きと共に息を体に取り入れることが自然なのです。

そこが、今回書きたかったことです。

テンポが悪くてスミマセン。それから、ワークショップはこれからはリクエスト制で、お願いします🙇

また内容をお忘れでしょう。

あれほど自重気味に更新のタイミングに関して記述しておきながらまた大分間隔が空いてしまいました。

この調子でもしも車を運転したなら、同乗者は間違いなく酔いますね。このブログの読者の皆さんはビニール袋をどうぞ。

前回はぼやきながら色々と散りばめ過ぎて収拾がつかなくなって一旦強制終了した形でした。

それで翌日にはつづきを書き始めたものの、今の社会を構成している事象を改めて見詰め直してみると結構なショック度合いだったので気軽にポチポチ出来なくなってしまってました。

そうなんです、意外と繊細なんです。

最近よく書籍なんかでも取り上げられている“繊細さん”よりは大分楽に生きさせてもらってるとは思うのですが、それでも繊細は繊細です。

呼吸が切り替わってないのが主流で重宝されて持ち上げられて持て囃されている、そんな世の中。

ニュース番組でスポーツニュースの時間が多目に設定される意味合いとは。

スポーツの全てが美しい訳では無いけれど、それでもまだ、スポーツの中には純粋な美しさが大量に残っている。

開催運営する仕組みや団体や目的······の一部はと敢えて添えておきますが、それはそれは酷いもんなんでしょうけれど、エネルギーが発露するその瞬間々々には何の罪も無く自然の摂理が凝縮されています、呼吸は切り替わっています。

芸術はスポーツとは勿論違うけれども、スポーツの中の洗練されたプレーの一瞬が芸術的としか見えないことがあるのは何故なのか。

反対に、芸術活動として躍起になっていることがあまり良くない意味合いでスポーツ的に見えてしまうことがあるのは一体どういうことなのか。

そもそも分けて考える必要があるのか。

そんなことを考えていましたら、オンラインワークショップを開放せずに何週間か経っていたようで、申し訳ございませんでした。

そんな中、開講リクエストを頂いて「ハッ」と気付きました。

これからはご依頼を頂いたらやらせて頂くのが良いと思いましたので、オンラインでも対面でも、ワークショップのご依頼をお待ちしております。

こちらから「やりますよー」と言う頻度はもしかすると減るかも知れません。

↓下記HP内に、tonus.mn@gmail.comというアドレスが太字で表示されますので、そこをクリックして頂くか、tonus.mn@gmail.comを宛先欄に手入力してご連絡ください。

https://tonus-mn.jimdofree.com/

それで、そう、ちょっと仕切り直しみたいになってしまいましたが、物凄く良く表現出来ているとはどういうことなのかを、ゆっくりゆっくり咀嚼しながら薄皮を剥ぐように書き進めて行くことにします。

先のアドレスから、色々とご質問や励ましのお言葉を頂けると更に有り難く思います。

皆さんが消化し切れない位にテンポ良くが理想

物凄く良く表現出来ているとはどういうことなのか。

それは一体何をどんな風に表現しているのか。

これまた大変な問題へと先行きも考えずに踏み込んで行こうとしています。

陰と陽の摂理を無視しての活動など、この世の中にはきっとざらにあるのでしょう。

身近なところでは肩凝りや腰痛に不眠やアレルギーとか色んなリミッターが出現して、何か違ってませんかというメッセージを投げ掛け続けています。

能動的に、必要性を感じている(本当にそんなにも必要なのかどうかは別にして)分量の空気を充分に吸い込んで、更に続けて能動的に呼気というエネルギーを放出する。

本来であれば能動的に空気を取り入れたならその次は力を解放して弾力や重力に任せて息を排出するのが最も自然で、そうしていれば元々命を効率良く維持する為の営みである呼吸をすることで疲れるという矛盾した現象は起きません。

ところが、その自然の効率の方を採らないで能動性の連続を人々はよくやっています。

世の中で商業的に成功していて名声を得ている殆んどの人達も、実際そのように“頑張って”らっしゃるパターンも多いのではないかと思います。

何しろ、意識的に息を吸い込んで、本当は弛みたがっているターンで矢継ぎ早にまた新しい力を使って何かを支える訳ですから、「働いてる感、自分はよくやってる感、誉めてあげたり誉めてもらえたりしそうな充実感」で満たされるように思います。

そのような傾向のエネルギーが、これまでの人類の歴史の大きな一端を担って来た点は大いにあるのでしょう。

その結果が良くも悪くも今であることは認めざるを得ません。

それで、ここまでの文脈から段々と見え始めていることはと言いますと、僕がこんなに時間を掛けてまで伝えようとしている、“物凄く良く表現出来ている時”とは、そのようなこととは違うということになって来ます。

大丈夫でしょうか。

答が先に決まってしまっている世界の人がいらっしゃって、例えば大相撲の力士として出世しようとするならば、一日一食とか二食でドカ食いして稽古では信じられないような負荷を全身に掛けて、ヒトという生物としての健康を度外視することが必須条件となり、ただの脂肪太りでは無いにせよ、肥満を求められることになります。

オペラという世界があって、あれは王様が自分の威厳を他の領土に誇示する為の道具として発展したという背景があります。

それが勃興し成熟してゆく時代と産業革命の時期も符号するように、人間がちょっと調子に乗り始めた時代、科学や文明の力でその内に自然をも凌駕し制御すら出来るという、ある種の希望をリアルに抱き始めた、その一つの象徴のようにしてあの様式があの歌い方が広まって行ったように僕は常々感じています。

これらは基本的には、僕がお伝えしているような呼吸、生命維持という根本的なことから繋がる自然で楽で負担の無い感覚を尊重していては賄い切れないような表現がそもそもの答なのだと思います。

外国育ちの外国人力士の立ち居振舞いや相撲の取り口そのものには常に「あれが力士と言えるのか、あれを相撲と言えるのか」といった声が付き纏います。

大関小錦は圧倒的な成績を残しても横綱には推挙されませんでした。

それを審議するオッサンやオバハンはバリバリの洋服を着て洋室の会議室で、髷を結ってふんどし姿、浴衣姿で異文化にチャレンジし奮闘している若者の人生を左右するのです。とまあ、それは置いときまして。

多分このオッサンやオバハンは結構頻繁にフランス料理とか食ってそうな感じですが、その口で毎日ちゃんこ鍋を食べている若者を審議するのです。とまあ、それは置いときまして。

多分中には外車に乗ってたりする奴も······。いやそもそも自動車自体が外国の文化でして。はい、もうやめときますね。

日本で生まれ育った日本人がオペラを歌ったり演じたりすると、本場で完璧に認められる為には相当な何かを補う必要性、苦労が見て取れるように思います。

横隔膜を力でグッと押し下げ目一杯押し拡げて、膝をグッと伸ばして大地に逆らって叫ぶように歌う人が多い世界だろうなと想像するのですが、そんな世界の中でも少なくとも僕の回りには僕がご提案するような呼吸と仲好くしながら淡々とマイペースで表現されている方も極々少数ではありますが居られます。

そもそもが僕のクライアントさんの数自体が極々少数なのですから、確率は大分高いということにはなります(笑)が、そのような方に対して僕は本当に感心してしまいます。

本当の表現。

俳優さんは皆泥棒や殺人の経験者なのかというとほぼ違う筈です。

これは役柄に限定された話のように感じるかも知れませんが、先程書いた異文化の話、表面上は根っ子が違うのに憧れの別の花を咲かせようとするような取り組みにも、本当は共通の話です。

呼吸の本当の深い深い処へ降りて行く、そして本当に深い処からの折り返しのエネルギーに目を背けること無く賭けてみる、これこそが、本当の表現への唯一で最速の近道だと思うのです。

小錦の話を挟んだせいもあってかなりのスペースを消費してしまいました。

つづきはなる早で、ちょっととっ散らかった内容を整理する意味もこめまして。

皆さんが忘れない内にテンポよく

前回の問い掛けは伝わり難いのを承知で投げ掛けておりますので意味が分からない方がもしいらしても焦らないでください。

ワークショップで実際に体を動かしながらお伝えしても伝わり切らない内容を、ましてや言葉ではもっともっともどかしくなるのは当たり前のことです。

そもそもが完全になど伝わらないことを前提として行うのがコミュニケーションの基本だと思います。

メソッドとしての呼吸“法”というボキャブラリーが既に頭の中にある。

息を“吸う”という言葉と意識が常識として定着していて何の違和感も無く使用出来る。

この超変人ブログのような先ず大前提として“呼吸”という言葉自体を使わないで済むのなら本当は一度たりとも使いたくは無い位に“呼吸”という言葉の造り出す限定性や枠に疑問を特には感じない。

それがこの文章をお読みくださっている方々の現状かと思われますので、どうしたってこのような文は筆者の独りよがりとなります。

それでも書いているのがこのブログなので、ここで再確認させて頂きました。

昼と夜は交互にやって来て、寝ると起きるは交互にやって来て、満潮と干潮は交互にやって来て、新月から満月へ、満月から新月へと推移し、心臓の拍動·脈拍や呼気と吸気、吸気と呼気も交互に繰り返されます。決していつも均等では無いけれども、交互に行われることが自然の摂理と言えます。

それで、緊張と弛緩も同様であるのが理想です。過覚醒や過緊張はその交互にという自然のルールから逸脱した状態で、高じれば調整の為に何らかの具体的な不調に見舞われたり、極端に真逆の抑鬱などの症状を引き起こさざるを得なくなるでしょう。

交互に、順番こに、これらを終局的に全て根底から引っくるめて深く深く捉えてゆくと陰と陽に行き着くのだと思います。

それで前回の後半での問い掛けです。

積極的な仕事として空気を体内へと取り入れたなら、自然の摂理としては、体は休息を望みます。

取り入れた空気の量が多ければ多いほど体内の圧による緊張感·膨張感も高まりますので、その直後に体が期待して望むのはその緊張からの解放·弛緩です。

この“本来の”自然なルール、思考が提案して来るようなアイデアを一切採用せずに、正に手付かずの状態の呼吸そのままで呼気に何らかの言葉や表現を乗せるとしたらどうなるでしょうというのが今皆さんに問い掛けていることです。

そして実際に世間一般に人から人へと伝達されている表現に関するやり方は、この純粋な摂理·法則に逆らっているのが殆んどです。

それは、呼吸が切り替わることを認識せずに、ということは、本当に自分が最高の状態でパフォーマンス出来ている時の、何故そんなに凄いことになっているのかの根本原因を上手く自己分析出来ずに、焦点のずれた内容を他人に伝えてしまっているということです。

恐らく世の中の本当に優れた表現者の方で、何故自分がそんなに凄いのかを本当に把握出来ている人は少ないように思います。

例えば歌のレッスンでは、自分もこのように教えてもらったからそれを自分のお弟子さんにも伝える。

しかし、その先生の兄弟弟子や同僚が皆揃って潜在能力を発揮して各々に成功したのかを考えているなら決してそんな安易な伝承とはならない筈なんです。

同じ師匠に学びながらも、その真髄に近付き得た、自分だけが気付いた深い鳴動があった筈なんです。

その、師匠とその教え、その時に自分が受け取って動いた感覚やタイミングが先ずあって、そして今、自分が伝える立場になった時、では今この目の前に居てくれる自分の生徒さんには、また独自の感覚とタイミングに開かれていることを保証するのが先生の本来の唯一の役割です。

話を強引に戻します。

積極的に息を吸い込んで、その状態から発する呼気は本来ならば弛んで萎んでゆく指向性を備えていますが、世間一般では殆んど全て、そこに何らかの補足的な緊張を加えてそれを支えとして積極的な表現へと繋いでいます。

人から人へとその要領を伝える時には特に、不思議とそのように、積極性の次にまたすぐ積極性が来るという、不自然なことを当たり前のように、善かれと思って、何の悪気も無く教えてしまいます。

先程の話のように、もしかしたらその教えている人本人は、自分が絶好調の時にはそんな不自然なことをしていないかも知れないのに、その絶好調の時の自分の凄さの原因を分かっていないばっかりに、仕方無くというか何というか、何となくこれまでの学びや見聞きしたことから、「多分こういうことなんじゃないかな」というような不確定な情報でお茶を濁しているように思われます。

違うのです。

本当に人が凄い表現を出来ている時、呼吸が切り替わってるんです。

それで、本当に人が凄い表現を出来ている時、呼吸が切り替わることを邪魔せずに、自然の摂理に逆らわずに居られている時なんです。

久しぶりに○○の話を

このブログで何度もというか何度か述べていますように、と突然言われても読者の皆様に取りましてはエラい間隔が開いて話が繋がってるものですからどんな感じの話だったのか簡単には思い出せないかも知れません。

すみません、○○の話って呼吸の話です。

ヒトは通常の呼吸では、息を体に取り入れる時にどちらかというと積極的な仕事をし体内の圧を高め、そして息を排出するのは取り入れる為の仕事を手放し高まった内圧が弛むに任せると、やや大雑把ではありますが説明出来ると思います。

思い出して来られたでしょうか。

よく風船に例えられるように、膨らませるにはそれ相応のエネルギーを必要とし、萎ませるのはそれが縮むに任せる感じです。

これらは、主に首から下の体の運動という意味の話になると思います。

脳のレベルでの話では、原始的な脳が体内の空気(きっと主に酸素)の量に反応して全てオートマチックに、つまり意識とか意志に関係無くお任せでやってくれている仕事、ということになるのだと思います(※但しそこに意識を介入させて操作も可能なところに発展性と共にボタンの掛け違いをやらかす危険性も孕んでいるからちと厄介なのです)。

それで、“呼吸が切り替わる”とは、ここまでに述べた事が真逆に転換するということです。

体が緩むことで空気が体の中へと迎え入れられて、一定の緊張と共に息を体の外へと排出する、そのように切り替わるという意味です。

空気で満たされて体が内側から膨らむこと、息を排出すればその膨らみが萎んでゆくという事実は呼吸が切り替わろうが切り替わるまいが同じことです。

ところが、この二つの呼吸での体感は各々に極めて対称的です。

ここから、息を体の外へ送り出す作業が体の弛むに任せる、仕事量として0に近付いて行くようなところに、その息を出している本人にとっての積極的なエネルギーは乗るのかという話に繋がって行きます。

積極的に息を吸い込んで、そのパンパンに膨らんだ体を弛めながら何か言葉を発するとしたら、どのような内容の言葉が相応しいでしょうか。

発する言葉の内容などと急に問われても難しいようでしたら、その調子は強くはっきりとした、又はしっかりとした勢いのある感じなのか、その逆なのか。

また、長く持続性のある表現に耐え得るのかそうでは無さそうか。

イメージしたり、可能な場合は是非とも実際に何か声や音を発してみてください。

内容は?

寝坊は寝坊で反省し、これからは繰り返さないようにしないといけません。

ところで昨日のワークショップでは、骨盤を構成する骨一つ一つの感覚を大切に味わうということをしました。

それで、物凄く地味な話なのですが、暦というものの凄さを体で感じる機会に恵まれたのです。

前回も少し違うやり方で骨盤に寄り添ってみました。その時、骨盤の中に感じる季節は明らかにまだ冬だったように思います。

しかし昨日感じたそれは、紛れもなく春の気配を纏っていました。立春を過ぎて、確実に体も変化しているのです。

繊細な感覚の持ち主でもっともっと才能のある人はしょっちゅう感じておられて当たり前のことなのかも知れませんが、僕個人としてはこんなにも明確に自分の体の中に季節を感じたのは初めてで、それがかなり嬉しいことでありました。

本当に素晴らしい体験、気付きを持たせて頂きました。

昨日は寝坊の原因として部屋の氣が入れ換わる程の断捨離敢行に付いても書きました。

この大規模な断捨離の内容はと言いますと、衣類、写真、紙の資料、でした。

それで、春の衣替えにも因んでちょっと衣類のことも書かせて頂きます。

今回お別れした服の数々は、全てが頂き物でした。その殆んどが、元々僕の為の物では無くて、例えば、福袋の中の自分は使わない物だが捨てるのは勿体無いから着てください、といった理由で回って来たような、実は僕の心身がちっとも喜んでない物ばっかりだったのです。

これまで装いや外観には善くも悪くも拘りが無く、そのような氣の向かない貰い物でも何でも平気で着て暮らしていましたが、今何故かこの時季になって、ちょっと違うなと感じ始めたのです。

それでそのような服また服といっぺんにお別れしましたので、肌着と上から羽織る物だけしか手元に無い状態になり、新しい服を何回かに分けて買いに出掛けました。

体型の意味に於いても今の経済状況という意味に於いても身の丈に合った、本当に自分で選んで気に入ったデザイン·色·素材の物、パッと見て「これだ!」と反射的に手が伸びる物を楽しみながら買い揃えてみました。

そうしてみて本当に、これまで自分を大切にしてあげてなかった面、生活の中のほんの細やかながら楽しめる要素を蔑ろにしていた面、心身が本当に喜ぶことを粗雑に扱っていた面に、強烈に気付いてしまいました。

何も外面の体裁を整えるだけで中身を軽視するといった話などではあろう筈が無く、どんな物でも有り難がって着させて頂く気持ちが大切、根本的な人間性そのものが大事だと言えば話は纏まり易いのでしょう。

しかし一方で、最も身近で先ずは最も大切にしてあげないと何も始まらない自分自身という存在を大切に包んでくれる衣服に氣を使うこと、これは、実は物凄く大事なことなんだと今頃この歳に成って気付かせて貰えたのです。

ブランド物の高級品を揃えたりした訳では勿論無いですが、自分の感性で楽しみながら選んだ物は、本当に良いもんです。

それだけで気分が上がります。

そろそろ梅も咲き始めています。

春はもうそこまで来ています。

寝坊しました

もう一度申し上げます、寝坊しました。

朝からSkypeを開放すると宣言しましたが、目が覚めると11:30でした(←午前です、辛うじて)。

誠に申し訳ございませんでした。

この節分と立春のタイミングで人生で再大規模の断捨離を敢行しました。

相当長い付き合いの、しかも思いが完全に断ち切れている訳では無いけれども、これから本当に前を向く為にはもう重荷になるような物を悉く妥協せずに心からの感謝を込めて、お清めし、お別れしたのです。

昨日はそれに伴うような形で必然性を持って部屋のほんの少しの模様替え、微調整も行いホッと一息という気持ちで床に着いたのです。

それで、朝(の積もり)、いつもの感覚では6時半から7時位の余裕の心持ちで起きて時計を見ましたら、11時半でした。

こんなにも爆睡したのはいつ以来でしょう。

本当にびっくりして、すっかり待ち惚けを喰らわしてしまっている方に急いでメールし、Skypeを立ち上げて、そこから笑ってワークをさせてもらえたので本当に良かったです。

もうお一人、早朝にお問い合わせメールをくださっていた方も居たのですが、対応が間に合わないということもやってしまいました。

誠に申し訳ございませんでした。

今回は二名の方に直接ご迷惑を掛けてしまった訳ですが、そこに関しましてこの場でも改めてお詫びさせて頂きます。

これに懲りず、また機会を与えてくださいますよう、勝手ですが、お願い出来ればと思います。

それにしても、部屋や身の周りを整理して、氣を調えることの凄さを強烈に体験させて頂きました。

これで毎日毎日寝坊ばっかりしてたら意味が違って来るのでしょうが、昨年から続く世の状況をこの身にもしっかりと浴びていたことがよく理解出来て、溜まっていた諸々を流し落とせた感が半端無いのです。

決して不真面目な精神では無く、寝坊したことがちょっと嬉しい自分が居ます。

今日はその朝の不足分を補うように?夜にもワークのお申し込みを頂き、しっかりと働かせて頂きました。

扉を開けて待っている(次回からはちゃんと朝も)、時間を問わずに気軽に人が訪れてくださる(朝でも)、こんなに肩の力が抜けた充実感をこちらが味わわせて頂くことが出来て、本当に有り難い一日となりました。

色んな意味で感謝申し上げます。

ありがとうございます。

本当に本当に、ありがとうございます。