呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

途中からしっかりと前回の続き、前半部分もある意味ちゃんと前回の続き

それにしても昨年の秋にテレビが壊れた時は、必殺仕事人DVDコレクションを買っても溜まっていくばかりでちっとも観ることが出来なかったのですが、ノートパソコンを無期限でお貸りして、更にかなり暫く経ってからそのノートパソコンでDVDが観られるということに気付かせてもらってからは周回遅れのランナーの如く必死で観させてもらいました。

テレビに繋いでいたDVDの機械(これは全く壊れてなど無く、興味深い番組も沢山録画されているのにテレビを買い換えないばっかりにお蔵入りとなっています)だと1.2倍速までしか早められませんでしたが、PCだと1.5とか2倍速でも音声アリで観られるんですねぇ。この機能には随分と助けられました。

これまで色んな職場でPCには触れていましたし、ブログ、メール、チラシや予定表、経理の簡単な資料等も作成した経験が豊富にあったのに、自宅に立派なノートパソコンがやって来るとかなり長期間持て余し、どう関係性を構築するかに随分と時間を要しました。これが自分で買えばまた違ったかとも思うのですが。

そうでした、今回は前回の続きだったのでした。

確か新渡戸稲造の言葉だったと思うのですが、「(外国語を)翻訳することは、どんなに精度高くやったとしても、それを読む人には刺繍の裏地側を見せているのと同じようなことになってしまう」というのがありまして。この言葉の原文は英語であり、ご参考までに僕はそれを翻訳で読みました(どないやっちゅうねん)。

人の活動を何かに当て嵌めようとする時に、既に翻訳となっていることにはよくよく注意しなければなりません。

ちょっと飛躍した例えに思われるかも知れませんが、オーディオ機器をシールドで繋ぐ、たったこの事でも、シールドやジャックの材質、金属の種類でもう既に音質が変わってしまう、そういうものです。最も安定した音質の為にはジャックを介さずに端子を直接ハンダ付けするのが一番とも言われます。

伝言ゲームをカズンや大音量ヘッドフォン等のハンディキャップを一切無い状態、つまりただ普通に言葉を次の人へ又次の人へと伝えるだけでやったとしても、必ず伝わる中身に誤差は生まれる。それは一人目から既に。

料理屋さんでも御菓子屋さんでも何でも食品を扱う店が大型商業施設にテナントとして入る時、値上げでもしない限りほぼ確実にテナント料を支払った皺寄せが商品の内容に影を落とすでしょう。高いテナント料でかかった経費分は材料の質を落とす等して対処するしかないからです。何せ商売は利益を上げないことにはお話になりませんから。

人の心をアフリカのサバンナに例えるなら、そのサバンナの雄大さや生命力、更には綺麗事だけでは済まされないあらゆる事に全て立ち返ろうとするのがワークショップの役目·位置付けです。

ところがその本質を、どうしてもサファリパークや動物園、もっと目も当てられない状況となると図鑑や百科事典にまで矮小化しようとする心理が受け手側に働くことがあります。そのようにした方が日常生活は確かに送りやすいからです。

ワークを通して繊細な感覚を体で包んだり繊細な感覚に体を包まれたりしている時に、そこに任せるようにただ揺蕩(タユタ)っていることと、そこで既に思考による分析が始まってしまうこと、これは大きな違いであり、混同しない為にはよくよく気を付けてなければならないことです。

人間は思考する動物ですからそれを無理に止めようとする必要は無いと思いますが、思考が勝(マサ)ってしまった時でも背景のように感覚の世界は現前しているものです。

それは例えば目の錯覚のパズルというかクイズというか、皆さんもきっと新聞や何かで一度はご覧になったことがあると思いますが、一見意味の無い幾何学模様のCGの真ん中辺りに二つの点が配してあって、その二つの点が三つに見えるように焦点を合わせると何か意味のある像が現れるやつ、あんな感じが分かり易いかと思いますが、感覚とはそのように、ある囚われた視点を外した時に、既にそこにあったことに気付くものです。

図鑑や百科事典と書いたところで、そうそう、輪読会のことに付いても書くんだったなと思い出しました。

輪読会は僕が企画した集まりの中で最も人がコンスタントに集まる会でした。

僕の感覚では敢えて言葉にするまでも無い位、僕の活動の中で何が大切か、その比率で言うと99:1とかそれ位の差でワークの実践が大切です。

ある時に、あの輪読会の時間をワークショップに変えてみたらどうだろう?とふと思った瞬間がありました(もしかしたら割りと初期の頃からそう思っていたかも知れません)。

でもそう思った直後というか殆んど同時に「それはちょっと、意地悪が過ぎるかな」とも思ってしまっていました。

普通に考えると、こんなにこと(自分のワークが意地悪のツールになってしまう)が頭を過るのは有り得ないこと、だけれども本当にそう思ってしまっていたので、思ってしまったことは仕方がないのです。それよりも、何が僕にそう思わせたのか?それともただの僕の妄想なのか?そっちを精査することが大事です。

ただ、それほど人生という歴史が詰まった心身の固さをワークでほぐすことは、各々の人に取ってはこの上ない難事業なんだなという理解は当然の事ながらありますから。

また素人のくせに心理学や心理カウンセリングの話になぞらえますが、肝心のクライアント自身がちっとも話の核心に入ることをせずに、雑談のような話だけで何回もセッションの時間を費やしてしまうことはよくあることだと思いますが、そのような時間をも蔑ろにはしないのが、本当に人間の全て、人格そのものを受け容れて大切にすることでもあるのだとすると、あれだけあの会だけ参加率が高かったのも理解出来ますし、あの時間をいっそのことワークの時間に変えてしまう等という発想は、冷酷なこと、やらなくて良かったことだと納得します(それに何よりもその計画を実行し、予想している事とはいえ実際に参加者が徐々に減ってしまったら、それを目の当たりにする勇気が僕には無かった)。その証拠に通常のワークショップでも私語や雑談や溜まった愚痴が収まらず延々続くことはしょっちゅうです。そのように話だけしている方がその時は気が紛れて楽になったように感じるのです。それはそれで何らかの発散にもなっているでしょうし、学校の授業や企業の会議ではありませんからある程度そのまま受け容れて聞いてはいますが、当然ながらそのような喋りを重ねても根本的には何の進展も深まりもありません。それはワークで心身に没頭することで到達する感覚とは全く別の、一時的な気休め程度のこととなります。ですから残念ではあります、ワークが一番好きな立場からすると。

それはいくら、輪読会で話し合われた事が深く有意義なことであったとしても、ワークそのものによって心身の内奥から染み出て来る感覚や感情とは比べ物にはならないことですから。

今はこの輪読会というものにこれからも自分が関わって行くのか思案の真っ最中です。ここまでの文面を自分で読み返してみると若干既に過去形傾向の言い回しとなっていて現在進行形の感じはしませんが、それほどこの数ヶ月の空白期間が文字通り空白に感じられているからだと思います。

それに、自分が立ち上げたものなのに関わり続けるか続けないかという選択になっているのも奇妙ですが、実際もういつの頃からか自分が手掛けた会という印象ではなくなっているのです。これはしかし、特段に悪いことではないですが。猪木さんと新日本プロレスの関係もこんな感じだったのでしょうか?

先ほどは人間の心をアフリカのサバンナに例えてみました。それと前回、“暑中見舞が秋に返って来る”ような囚われの無さを本当はもっと醸し出したいということを書きました。

僕のワークショップ周辺のあらゆる全ての事々が悉く皆さんに取っての異空間になってこそ、“本当に”皆さんに効いて行く浸透して行くのは明白です。

普段皆さんが活躍していることを、僕のワークショップに応用して役立てようとすることは、知らず知らずの内にその異空間構築を阻害していることにはなります。それが、自分が変容する事に対する無意識からの一種の抵抗となっているのでよくよく注意が必要とはいつかの記事にも書いてあります。

その普段の、社会に上手く適応しなければならない働き方によって疲れた心身を整え、芸術のようなことから益々遠ざかる自分を立て直す意味で参加している筈のワークショップをも、その自分を疲れさせている機構に書き換えてはいけないのです。

ただ静かにワークを、前向きな気持ちで取り組めた回数のみを数えて、何も知らない人からただ者ではないと何かを勘づかれるようになったなら、それがこの活動への唯一で最高の支援となります。それ以外の、言葉や文章による紹介や勧誘が、良くて一回切りのお付き合い参戦を誘い出せるのが関の山、徒労に終わることは何人もの方が何度も証明してくれました。

僕も修行時代から30年弱、人を勧誘したことは一度足りともありません。ですから今も勧誘が下手くそです。ちっとも心がこもらない。僕を芸術家の端くれと認めて頂けるなら、その芸術家の厄介な特徴とは、「分かってもらいたい」という叫びと「簡単に分かられてたまるか」という意地が同居していることだと確信します。

いつかの記事に浜田省吾さんのことを少しだけ書かせて頂きましたが、ロックミュージシャンのインタビューや言動、ロックミュージシャンじゃなくても芸術家の神出鬼没さや掴み所の無さを知っていて、近くに居たら面倒臭そうだけどちょっと距離を置いてる分にはめちゃくちゃ面白いと感じる人もたくさん居られると思うのですが、如何ですか。彼らに比べたら僕なんかがもし本当にもっと好き勝手にやらせてもらったとしても全然マシで品行方正、分かりやすい方だと思います(笑)

前回、指図をしないことや失敗や間違いを存分にさせてあげることの大切さにも触れましたね。これは、ワークショップの中だけでの話では勿論無いということはお分かり頂けているとは思いますが、念の為に改めて説明せずには居れない気持ちです。皆さんは特に僕のようなワークショップでインストラクターをする訳では無いのですから当然です。

普段の私生活や仕事上で、特に同じような立場の者同志で、または立場が上の人から立場が下の人に対して、そのように信じてじっと見守る態度で接することは可能だと感じますか?

ついつい色々と言いたくなる自分を我慢するのでは無いですよ。指摘したい自分を必死で抑え込むのでは全く意味がありません。それでは押さえ付けている我慢が緊張として結局は伝わってしまいますから余計に質が悪くなるかも知れません。それだったらいっそのことはっきりと言葉にして言ってもらった方がさっぱりしていて言い様によってはよっぽど後腐れが無い。

そうではなくここで伝えている事は、指図しない、指摘しないのが自然で普通でいられるか、指図など思い浮かばない自分であるかという話です。

それが自然な態度となるには、ただひたすらに自分の呼吸とよく知り合いになる、その経験が豊富であるかどうかだけが唯一の道だと思います。

暑中見舞が秋どころか、正月を過ぎたらもう準備となったら、呼吸なんか楽になる訳がないのです、本当ならば。

不二家のケーキでクリスマス♪が済んだら♪お正月を写そう、フジカラーで写そう♪その次は♪御節も良いけどカレーもね♪と思ったら森光子が出て来て“人形のモリシゲの雛人形”が終わったら直ぐ“五月人形”。今はその間々に節分の恵方巻きやバレンタインデー、ホワイトデー、母の日·父の日、ハロウィーン······。

いや~、改めて今、テレビ無しの生活がよく出来てるなぁ~、懐かしいなぁ~、と言っている場合では無いのでした。

僕はこれまでもこれからもスタッフや所謂“関係者”という立場の人を一切身辺に配する積もりはありませんが、ここに書いたような事をそれこそ阿吽の呼吸、目配せ、そんなのも面倒な位に全て呑み込んでくれる人が現れたなら、こちらから深々と頭を下げて協力をお願いすると思います。

地方で僕のワークショップを企画して呼んでくださる方は僕のそのような偏屈さをよく理解してくださっていて、どうやったらアフリカのサバンナをそのまま切り取って持って来れるかを苦心惨憺して頂いてるのが伝わり本当に申し訳ないし有難いことです。でも、それを実行することは本当に難しいでしょう?

どうしたって何日も前から予定を立てないことには成り立ちませんし。

ならばこんなことを書かなければ良いようなもんですが······。

もう少し、心置きなく遠出が出来る位に世の中の雰囲気が変わったら、先ずは何処か星空の鮮やかに見える場所へレンタカーでも借りて独りキャンプにでも出掛けて、心身と空気がどんな風に交わり戯れるのかをただ静かにじっと感じてみたいと思っています。

そうすれば、このような社会状況下でも手足を縛られたようにはならず、本当に誰かの役に立てる、ちゃんと使い物になる営みに辿り着けるかな?と、淡い甘い期待を寄せながら久しぶりに今日はゆったりしています。