呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

➿この4連休は毎日オンライン解放します➿

ボーッと過ごしていましたらもう連休前の金曜の夜になっていました。

それで明日の土曜の午前中からオンラインでワークショップを連日開催します。

◎9/19(土) 10:30~12:00位、13:00~14:30位(※Zoom)

◎9/20(日) 10:30~12:00位、13:00~14:30位(※Skype)

◎9/21(月) 10:30~12:00位、13:00~14:30位(※Zoom)

◎9/22(火) 10:30~12:00位、13:00~14:30位(※Skype)

以上のようなスケジュールを組んでみました。

料金は一枠¥2,000-で、この4日間に限り日を跨いでも二枠目からは¥1,000-、五枠目以降は¥500-とし、もし全部参加の場合は一括¥5,000-とさせて頂きます。

何故こんな感じでやるのかと言いますと、もし参加した皆さんがこのようなワークショップをやる側になったとしたら、当たり前のように出来る、そんなコンストラクション仕様を頭の片隅に描きながらやってみる、そんなことを、ついさっき、思い付いたからです。

そう、困っている誰かの問いに応えられる、それ位にワークが府に落ちていることが、それが最も自分の為になることだと、ついさっき、思ったものですから。

普段から皆さんが疑問に思っていることや、質問にも沢山答えたり応えたりしようと一人張り切っています。

参加ご希望の方は必ず事前にご連絡ください。IDとパスコードをお知らせします。

↓下記HP内、メールアドレスからワンクリックでお願い致します↓

https://tonus-mn.jimdofree.com/

嬉しい招待状

僕のワークショップにいつも熱心に関わってくださっているある声楽家の方からコンサートの招待状を頂きました。

約5年前に大病を患われてから懸命の努力で克服され、きっと生きている証としての記念碑的な歌声を披露される、それでいて何処か力の抜けた明るい、そんな決意がお手紙からは伝わって来ました。

ウィルスに対して腰が引けたような今のご時世、先ず招待状を送っても良いかどうか、確認のメールをくださいました。

僕はそのメールのタイトルを読んだ時点で反射的に99%、そして開いて、本文を読むのではなく全体的に眺めた瞬間にはもう100%、「このコンサートには絶対に行く」、と体が反応していました。頭で考えるのでは無く体がです。

まだまだ相変わらずこのような催しをする際にはソーシャルディスタンスの諸注意事項など、会場側からの制約を沢山言い渡されたことでしょう。

それと共に、聴きに行く側の方でも行くべきか行かざるべきかとの迷いが頭をぐるぐる巡ることも多いかと思います。

けれどそれらは全て頭の中での世界。

今回このような一大決心でコンサートを開かれるに当たって、きっと僕とは違って練習やリハーサルも重ねられますよね(笑)

要所々々でマスクや除菌アイテムも駆使しながら、リスクと背中合せの活動となる筈です。

それでも、表現しておきたい何かがあるということ、人間にはそんな時、そんな瞬間があるということなんだと僕は思います。

そういう事にウィルスがどうのこうのは、本来あんまり関係無いように僕には思えてなりません。

そんな大切な瞬間に立ち会わせて頂ける、その稀少な一人として選んで頂いた。

ここに行こうか行くまいか、頭で考える余地が入り込む隙は、少なくとも僕には無かったということです。

物事に関わるということは、いつも本来、こんな風に打てば響く関係、リズムもテンポも清々しいもので、そうじゃない物事、ちょっとでも悩んだり考えたりする事に義理や付き合いで首を突っ込んでも、結果的にお互いあんまり幸福になれないように思うのです。無理はしない方が良い。

今回ご招待頂いたこのコンサートに関しては、体が既に会場で歌声を聴いている姿をイメージしてしまっているようです。

きっと気持ちの晴れやかな、それはそれは素晴らしいコンサートになるのではないでしょうか。

僕は勿論評論家としてなんかでは無く、一人の人間として聴かせて頂くのです。ゆったりとした穏やかな心で。

こんな時に「ワークショップの成果が···」とか「呼吸の効用効果が···」とか、そんな五月蝿い事が頭を過ることすらなく、命の表現を楽しむのです。

今から本当に待ち遠しくてなりません。

初めての2部制オンラインワークショップ、午前も午後も充実してました。

午前中からオンラインワークショップをやってみて成功でした。

午後にやると15時頃には退出希望の方が多く、余韻を楽しめないことが残念に感じられていましたので、思い切って午前にも開催してみました。ちょっと朝のスケジュールがきつくなるのかも知れませんが、多くの方にご参加頂けて良かったです。

無理に体を沢山動かしたりすることはせずに、今の自分の状態・身の丈に合った簡単な体へのアプローチから、いつの間にか生きる営みの根本のところ(ありふれた言葉にすると呼吸のこと)に興味を持つことが出来ます(別の言葉にすると集中)。

今日もそんな風に、シンプルに極めてシンプルに体の内側深くで起こっている事を丁寧に丁寧に感じ見守っていると唯それだけで、その更に奥にあること、更にその先にあることとの出会いがありました。

これ迄は単に個人的なゆとりやリラックスでしか無かったような事が、もっと広く大きな意味での安らぎに繋がっていたりという方向性、自分一人だけが幸せになることは不可能であると言葉では簡単に言い表せても、それを身体感覚として実感する機会はなかなか得られないもので、そんな体験の糸口のようなワークも自然な流れの中から出て来ました。

午後の部でもメンバーが少なかろうが変わろうがその流れが続いていて、僕自身に実感が伴っていることも手伝ってそれがまたしっかりと伝わって、更に微細で繊細な感覚に目覚めて行くようなワークが沢山連なりました。

体の何処か一部が動いている時、その動きとは全く無関係に存在しているその他の部位は果たしてあるのか。

体の何処か一部もしくはある帯域が生きる為の動きを表現している時(生きている限り実はそれは常に)、その波のようなうねりが伝わっていない箇所は果たしてあるのか。

更にその波のようなうねりは個人的な体の外側へと波及しているのかいないのか。

そんな事を皆さんに、体感としてシェアさせて頂きました。

ワークショップが終わった後には色々とお話も出ますが、こんな事を集中してやってますから基本皆さん無口になります。

本日もこのような、人に何と説明して良いやら分からない、変わったワークにお付き合いくださりありがとうございました。

理屈で説明することを諦めた時、その人の生きる姿からワークの成果が滲み出て来るのではないかと密かに思っています。

※終了しました💡珍しく真面目に早目のお知らせ➿9/6(日)オンラインワークショップ➿

9/6(日) 10:30~12:00頃 + ほんの少しの延長もあり、13:00~14:30頃 + 流れにより夕方頃まで続きをやったりお話したり疲れてもうやめたり·····、といった感じでオンラインワークショップを今回は午前と午後の二枠に分けて行います。

使用するツールはZoomです。

参加費は午前の部·午後の部·各¥2,000-ですが、万一暇で物好きで両方参加の方が居られましたらその場合は¥3,000-とさせて頂きます。

もう何ヵ月も前になりますが、オンラインワークショップを始めたばかりの頃に比べると参加人数はかなり減りましたが、それでもここ数回は程好く安定していて、やり取りも内容もどんどん自然になって、このやり方がワークの場として成長している、それが実感されています。

参加ご希望の方は必ず事前にご連絡ください。IDとパスコードをお知らせします。

↓下記HP内、メールアドレスからワンクリックでお願い致します↓

https://tonus-mn.jimdofree.com/

昨日(0:00を過ぎたので正確には一昨日)の続き

↓去年の同じ時期に撮りました
f:id:nakayama-att:20200826234737j:image↓これが今年
f:id:nakayama-att:20200826234811j:image昨日の記事で、他の人の体の状態を感得し、今その瞬間に必要な手助けをするテクニックについて書きました。そのコツとして、難しく考えずに気楽にやることを挙げました。

適当にやる、良い加減にやる、これらの言葉は何故不真面目なニュアンスを引き連れて来てしまうのか不思議でなりませんが、躊躇わずに適当に良い加減にやるのです。

「次の文の空欄に適当な言葉を当てはめなさい」の適当は、適切で的を射ているということです。適当にやるとはそのように適当にやることです。

「味付けが丁度良い加減ですね」と言うように、良い加減にやるとは絶妙であることです。

僕のワークショップでは、精神的とか、抵抗無く受け取ってくださる方なら霊的とか、そんな根本的なことに加えて人間がわざわざ体を持っている意味というものを探求している、また逆に、体から精神や魂へと生きる意味を求めて旅をしていると感じることが度々あります。

人間は生物として四つ足から二本脚になり、その二本の脚が骨盤で一つに合わさり脊柱という大きな本流となりエネルギーは必然的・運命的に天空へと向かうこととなります。

それを実体験することが則ち分かりやすい言葉で表すならば呼吸を体験することです。

そのような、こんな下手くそな文章にしてしまうと難しくて堅苦しくて辛気臭い感じのことを、実際にはリラックスして(リラックスしないとこんなことは体験出来ない)楽しみながら(楽しい以外の感覚を得る方がなかなか大変)日々繰り返している人が先程挙げたような本当の意味での“適当に、良い加減に”出来る人となります。

なので、昨日のワークショップで、「パフォーマンスしている人を適当に良い加減に手助けしてみてください」と僕が伝えた時、普段から皆さん其々の体を通して気付き育てた感覚の中の、受け取りようによっては際立った個性でもあって、それがまた同じ人間という仲間である証とも言える極めて印象的で普遍的な感覚が、大き過ぎて全体像が掴めない芸術作品の如く自分の背景として常に横たわっていることに目覚めて頂けたなら、考える暇(いとま)も無く差し伸べた掌や指先が、全て「何故そこが痒いと分かったのですか?」というような、センセーショナルな応答となる、そんなことが伝えたかったのです、体験してもらいたかったのです。

本日の大船ワーク

ほんの少し、本当に僅かながら風の感触が秋めいたように思います。夕方以降は秋の虫の音もいつの間にか聞かれるようになって来ました。昨年までのように番号の若い台風が連続で列島を襲うことは今のところありません。

今日は今月2回目となる大船ワークショップの日でした。

参加してくださった方は四名で、午前午後に振り分けることはせず、いつものように対人間に適当な間隔を取ってワークを楽しみました。

人によっては背中の力を抜くワークが今日は特に印象的に効いたようで、というのも前回迄よりも、「こんなにも緩んで良いんだ」という範囲まで充分に力を抜くことが出来て、普段の氣の張った状態とは真逆の“境地”に浸ってしまってある意味気持ち良過ぎて大変だったと思います。

それで、それだけ背中の脱力が実現出来たなら、「息は能動的に吸いに行かなくてもちゃんと体の中にやって来てくれる」ことを体得し易くなります。

息を吐くという作業の終わりがそのまま息を取り込む自然なタイミングとなり、それは体に任せてしまいさえすれば、完全にオートマチックに体がやってくれることです、というのを楽しみながら沢山時間を割いてやってみました。

そして次に、肩にのし掛かる重圧をポジティブなエネルギーに変換する、そんな観念的なことを絵空事ではなくしっかりと体の使い方へと連結するようなワークも久しぶりに試みました。

もうその辺りで終了時間だったのですが、その後にもう一つ、パフォーマンスしている人を我が事として感得し補助する、これはよく個人セッション等に於いて僕がアドリブでやる手法なのですが、それを皆さんにもやってみてもらいました。

見ようによっては物凄い特殊なテクニックとも取れるかとは思いますが、理屈を捨てて“気楽に適当にやる”ことが出来れば誰でも出来るということを実体験として味わってもらいました。

こういうのをやると一見場が乱れてカオス状態みたいになっていると端からは見えるかも知れませんが、実は皆が其々に童心に帰ったように思い切り実験を楽しんでくれているのが分かり、微笑ましくもあります。

こんな盛り沢山な内容の横で、今日も犬や猫はよぉ~~~く寝てました。時には夢を見ている事もあったようで、人間側からのワークによるリラックス感が伝わっているとも言えるでしょうし、犬猫達のその安心し切った姿がこちらに相乗効果をもたらしてくれているとも感じます。

この会に集まる人が僕も含めてウィルスの事なんか全く気にもせず夢見心地の中でただ快楽を貪っている訳では勿論ありません。

こんな閉塞感の中にあって、例え僅な時間でも定期的に共に呼吸を味わって、生きているのを確認すること、そっちの方を取る人が集っている、そういうことだと思います。

オンラインでもこの大船の会でも、そのように生きている証を明確にする、そんな貴重な時間を共有させてくださる皆さん犬さん猫さんに今日も感謝です。
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f:id:nakayama-att:20200825194449j:image↑これらの画像は今回のではなく前回のものです。ガラスの冷んやり感がたまらなく気持ち良さそうです。

💧恐怖心に関する怖~~~い?お話💧

一時期“声と呼吸の実験”という企画を前面に打ち出していました。

多くの方が人前で何か表現しようとする際に不本意な過緊張状態に陥る、その事に対しての、克服や克服を諦めるといった幅広いアプローチを模索する為の企画でもありました。

最近YouTubeをよく視聴するようになりまして色々な番組を辿っていますと、引退した元プロ野球選手やその他スポーツ関係の方のチャンネルが沢山あることに気付き、それらを興味深く視させて頂いていることが多くなっています。

それで、「引退した今だから言える」話が沢山聞かせてもらえて非常に面白いのですが、中でもプロ野球選手が実は“ボールを怖がっている”といった内容には思うところがいっぱいで、複雑な心境にすらさせられます。

僕は少年野球も経験しましたし、大学の時には軟式ですが野球部に所属していました。

少年野球の時は、打席に立つのが怖くて怖くて仕方ありませんでした。何故かと言うと、ピッチャーの投球が体に向かって来ない保証が何処にも無かったからです。だからいつも腰を引いた状態(心境)で、ヒットを打つとか凡退するとかは全く関係なく、とにかく無事にこの打順を終えたいとしか考えていませんでした。

大学の時は不思議と打席での恐怖心はかなり緩和されていて、なんとかボールに食らい付いてバットに当てる、寧ろ意外な場面でしぶとくヒットを打つタイプの選手でしたが、怖いのは守備の時の打球でした。

特に高校野球で硬式球を経験した人達の打球をファーストやサードのポジションで待っている時なんかは怖くて怖くて最悪の心持ちだったことを思い出します。

それで、そんな時にいつも思っていたこと考えていたことは、「こんなにもボールを怖がる自分は異常で本当は野球なんかやってちゃいけない」というものでした。

他の皆はそんなことは平気でやっていて、ボールが当たったらどうしようなんて心配している人は自分以外誰も居ないと当然のように思っていたのです。

ところが、先程ご紹介したようなYouTubeチャンネルを視ていますと、例えばあの“絶好調男”と呼ばれた中畑清さんでも「『一球足りとも打球よ飛んで来るな!』と思って守っていた」と仰っています。そもそもこの“絶好調”というキャッチフレーズも、初めて長嶋監督に「調子はどうだ?」と聞かれた時に正直に「まあまあです」と答えてしまい、それを知ったあるコーチが「調子を聞かれてまあまあですと答える奴を監督が使うと思うか?」と窘められて、それからはどんなに調子が悪くても常に“絶好調”と言うようになったということです。

他にも例えば特に外国人選手を始めとしたスラッガーと呼ばれるような強打者が打席に立つと、本当に恐怖心と闘いながら必死に守っていたというコメントが他のプロ野球OBからもよく出て来ます。

またプロならではの話とは思いますが、ベンチからの指示でバッターを怖がらせる為にわざと頭や体をめがけてピッチャーが投げることも極普通にあった(ある?)ようです。

なのであの三冠王三度の落合博満さんも、全ての打席で、「実はあれは球を避けながら打っていた」と吐露しておられます。

普通バッティングでは、踏み出す足はボールから逃げないように踏み込んで行く筈ですが、落合さんの場合はそのセオリーを無視するかのように思いっ切り外側に開きまくって、それでもピッチャー側の肩だけは開かないように体を残して打っていたシーンが結構ありましたが、あれはそういう心理状態が産み出した独特のフォーム、技術だったということでしょう。

よく調子の悪かったときの原辰徳さん(現巨人軍監督)は、チャンスなのに腰が引けたバッティング等と叩かれていたものですが、チームの中心打者と呼ばれる人達は、いつ頭に投球が向かって来るかと用心しながら打席に立っていた(いる?)のだと思います。

一説によるとイチローさんはそれが嫌というのもあってメジャーリーグへ行ったとも聞いています。

そうそう、台湾のパワーヒッター呂明賜(ろ·めいし)選手が巨人軍時代にその猛打で注目され出した頃、「そろそろ頭を狙われる頃」といって、頭に向かって来るボールを避ける練習をしている光景が一部スポーツニュースで映し出されたりもしました。僕は個人的に、呂選手はその頃から急に打たなくなってしまったように感じていました。

まあ、久しぶりに長い話となっていますが、何が言いたいのかと申しますと、怖がっている人もそこにその場所に居ても良いということです。それだけではなく、怖がっていてもそこに居れば活躍すら出来るということなんです。

こんな大事な話、引退してからじゃなくもっと先に話してもらえたらとは思います。

例えば現役のプロ野球選手でもOBの方でも、少年野球教室を開いた時に、「ボールを怖がること自体は何も悪いことじゃない、僕もめちゃくちゃ怖い(怖かった)、怖いという気持ちを何とかする必要は無くて、それを補うような技術を磨いてみよう」と言ってあげてもらいたい。

だってほとんどの(怖がりの)人は、「自分とは住む世界が違う」と思い込んでしまっていると思うから。

どんな世界でも、怖がったままでそこに居ることはいけないことと思い込んでいる人が沢山居ると思いますが、怖いという感情そのものは極々自然のもの。寧ろ人並みに、そのように繊細な感性を持ち合わせている自分を愛でてあげてもらいたいと思います。

スポーツのように他と競い合う、時には味方とも競い合わねばならない世界でもそうなのですから、芸術のように、心の機微に触れ合う世界に於いてはなおのこと、孤独を悦び、怖がる自分をも大好きになって、たった一人の聴衆にさえ膝がガクガク震えてでもその姿や声を見せてもらいたい、聞かせてもらいたいと思います。

これは、そういうこと、例えば歌や表現が、好きならば、の話です。

この“好き”というのも、色々と深く深く辿って行けるものではありますが、今日はここまででおしまい。
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