呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

💧恐怖心に関する怖~~~い?お話💧

一時期“声と呼吸の実験”という企画を前面に打ち出していました。

多くの方が人前で何か表現しようとする際に不本意な過緊張状態に陥る、その事に対しての、克服や克服を諦めるといった幅広いアプローチを模索する為の企画でもありました。

最近YouTubeをよく視聴するようになりまして色々な番組を辿っていますと、引退した元プロ野球選手やその他スポーツ関係の方のチャンネルが沢山あることに気付き、それらを興味深く視させて頂いていることが多くなっています。

それで、「引退した今だから言える」話が沢山聞かせてもらえて非常に面白いのですが、中でもプロ野球選手が実は“ボールを怖がっている”といった内容には思うところがいっぱいで、複雑な心境にすらさせられます。

僕は少年野球も経験しましたし、大学の時には軟式ですが野球部に所属していました。

少年野球の時は、打席に立つのが怖くて怖くて仕方ありませんでした。何故かと言うと、ピッチャーの投球が体に向かって来ない保証が何処にも無かったからです。だからいつも腰を引いた状態(心境)で、ヒットを打つとか凡退するとかは全く関係なく、とにかく無事にこの打順を終えたいとしか考えていませんでした。

大学の時は不思議と打席での恐怖心はかなり緩和されていて、なんとかボールに食らい付いてバットに当てる、寧ろ意外な場面でしぶとくヒットを打つタイプの選手でしたが、怖いのは守備の時の打球でした。

特に高校野球で硬式球を経験した人達の打球をファーストやサードのポジションで待っている時なんかは怖くて怖くて最悪の心持ちだったことを思い出します。

それで、そんな時にいつも思っていたこと考えていたことは、「こんなにもボールを怖がる自分は異常で本当は野球なんかやってちゃいけない」というものでした。

他の皆はそんなことは平気でやっていて、ボールが当たったらどうしようなんて心配している人は自分以外誰も居ないと当然のように思っていたのです。

ところが、先程ご紹介したようなYouTubeチャンネルを視ていますと、例えばあの“絶好調男”と呼ばれた中畑清さんでも「『一球足りとも打球よ飛んで来るな!』と思って守っていた」と仰っています。そもそもこの“絶好調”というキャッチフレーズも、初めて長嶋監督に「調子はどうだ?」と聞かれた時に正直に「まあまあです」と答えてしまい、それを知ったあるコーチが「調子を聞かれてまあまあですと答える奴を監督が使うと思うか?」と窘められて、それからはどんなに調子が悪くても常に“絶好調”と言うようになったということです。

他にも例えば特に外国人選手を始めとしたスラッガーと呼ばれるような強打者が打席に立つと、本当に恐怖心と闘いながら必死に守っていたというコメントが他のプロ野球OBからもよく出て来ます。

またプロならではの話とは思いますが、ベンチからの指示でバッターを怖がらせる為にわざと頭や体をめがけてピッチャーが投げることも極普通にあった(ある?)ようです。

なのであの三冠王三度の落合博満さんも、全ての打席で、「実はあれは球を避けながら打っていた」と吐露しておられます。

普通バッティングでは、踏み出す足はボールから逃げないように踏み込んで行く筈ですが、落合さんの場合はそのセオリーを無視するかのように思いっ切り外側に開きまくって、それでもピッチャー側の肩だけは開かないように体を残して打っていたシーンが結構ありましたが、あれはそういう心理状態が産み出した独特のフォーム、技術だったということでしょう。

よく調子の悪かったときの原辰徳さん(現巨人軍監督)は、チャンスなのに腰が引けたバッティング等と叩かれていたものですが、チームの中心打者と呼ばれる人達は、いつ頭に投球が向かって来るかと用心しながら打席に立っていた(いる?)のだと思います。

一説によるとイチローさんはそれが嫌というのもあってメジャーリーグへ行ったとも聞いています。

そうそう、台湾のパワーヒッター呂明賜(ろ·めいし)選手が巨人軍時代にその猛打で注目され出した頃、「そろそろ頭を狙われる頃」といって、頭に向かって来るボールを避ける練習をしている光景が一部スポーツニュースで映し出されたりもしました。僕は個人的に、呂選手はその頃から急に打たなくなってしまったように感じていました。

まあ、久しぶりに長い話となっていますが、何が言いたいのかと申しますと、怖がっている人もそこにその場所に居ても良いということです。それだけではなく、怖がっていてもそこに居れば活躍すら出来るということなんです。

こんな大事な話、引退してからじゃなくもっと先に話してもらえたらとは思います。

例えば現役のプロ野球選手でもOBの方でも、少年野球教室を開いた時に、「ボールを怖がること自体は何も悪いことじゃない、僕もめちゃくちゃ怖い(怖かった)、怖いという気持ちを何とかする必要は無くて、それを補うような技術を磨いてみよう」と言ってあげてもらいたい。

だってほとんどの(怖がりの)人は、「自分とは住む世界が違う」と思い込んでしまっていると思うから。

どんな世界でも、怖がったままでそこに居ることはいけないことと思い込んでいる人が沢山居ると思いますが、怖いという感情そのものは極々自然のもの。寧ろ人並みに、そのように繊細な感性を持ち合わせている自分を愛でてあげてもらいたいと思います。

スポーツのように他と競い合う、時には味方とも競い合わねばならない世界でもそうなのですから、芸術のように、心の機微に触れ合う世界に於いてはなおのこと、孤独を悦び、怖がる自分をも大好きになって、たった一人の聴衆にさえ膝がガクガク震えてでもその姿や声を見せてもらいたい、聞かせてもらいたいと思います。

これは、そういうこと、例えば歌や表現が、好きならば、の話です。

この“好き”というのも、色々と深く深く辿って行けるものではありますが、今日はここまででおしまい。
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