呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

昨日(0:00を過ぎたので正確には一昨日)の続き

↓去年の同じ時期に撮りました
f:id:nakayama-att:20200826234737j:image↓これが今年
f:id:nakayama-att:20200826234811j:image昨日の記事で、他の人の体の状態を感得し、今その瞬間に必要な手助けをするテクニックについて書きました。そのコツとして、難しく考えずに気楽にやることを挙げました。

適当にやる、良い加減にやる、これらの言葉は何故不真面目なニュアンスを引き連れて来てしまうのか不思議でなりませんが、躊躇わずに適当に良い加減にやるのです。

「次の文の空欄に適当な言葉を当てはめなさい」の適当は、適切で的を射ているということです。適当にやるとはそのように適当にやることです。

「味付けが丁度良い加減ですね」と言うように、良い加減にやるとは絶妙であることです。

僕のワークショップでは、精神的とか、抵抗無く受け取ってくださる方なら霊的とか、そんな根本的なことに加えて人間がわざわざ体を持っている意味というものを探求している、また逆に、体から精神や魂へと生きる意味を求めて旅をしていると感じることが度々あります。

人間は生物として四つ足から二本脚になり、その二本の脚が骨盤で一つに合わさり脊柱という大きな本流となりエネルギーは必然的・運命的に天空へと向かうこととなります。

それを実体験することが則ち分かりやすい言葉で表すならば呼吸を体験することです。

そのような、こんな下手くそな文章にしてしまうと難しくて堅苦しくて辛気臭い感じのことを、実際にはリラックスして(リラックスしないとこんなことは体験出来ない)楽しみながら(楽しい以外の感覚を得る方がなかなか大変)日々繰り返している人が先程挙げたような本当の意味での“適当に、良い加減に”出来る人となります。

なので、昨日のワークショップで、「パフォーマンスしている人を適当に良い加減に手助けしてみてください」と僕が伝えた時、普段から皆さん其々の体を通して気付き育てた感覚の中の、受け取りようによっては際立った個性でもあって、それがまた同じ人間という仲間である証とも言える極めて印象的で普遍的な感覚が、大き過ぎて全体像が掴めない芸術作品の如く自分の背景として常に横たわっていることに目覚めて頂けたなら、考える暇(いとま)も無く差し伸べた掌や指先が、全て「何故そこが痒いと分かったのですか?」というような、センセーショナルな応答となる、そんなことが伝えたかったのです、体験してもらいたかったのです。