呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

手と脚(足)の大切な大切なお話

先日はお伝えしましたように、足首の捻挫がテーマのオンライン個人セッションを行いました。

僕のワークショップ、セッションで行っていることを思い切って大雑把に要約するならば、地に足が着いた状態をどれだけ体に思い出させることが出来るかということです。

その意味で、このワークに関わる人が下半身、特に足首の方に不具合が出るような体の使い方を思わず私生活でしてしまうということは、かなり重要なメッセージとして色んな意味で気に掛かります。

一つには、如何にワークショップでやったことが、少なくともその時のその人個人にとっては残念ながら有効性が無かったかの証明となってしまいますから。

その時の気持ち良さが、一時的なことであったり、心置きなくまた元のリズムで生活する為の単なるピットとかドックの役割にしかこのワークの時間がなっていない可能性があるということです。

せっかくおおよそ90分、時にはそれ以上の時間を費やして下半身へ血流を充実させて、暴走し勝ちな脳を大人しくさせる。そのような体からの発想と閃きで生きる為にやっていることも、受け取りようによっては仮想現実のような、恍惚感に浸るだけとなってしまうことがあるのかも知れません。

僕はパチンコはやりませんが、玉がチューリップに見事入らずに、こぼれてしまう、そんなことが起きているのかなと思ってしまうこともあります。

これは、感性が鋭いとか鈍いとかの問題では無さそうです。

寧ろ、敏感というか過敏な人の方が、生き方の可能性を広げるのには寧ろ有効な感覚の脇道、路地裏の味わい深い通りのようなものを見逃して、ひたすらお得意のメインストリートを突っ切ってしまっているのかも知れません。

一見鈍感の一言で片付けてしまわれそうな人が、却ってもたもたと、たどたどしくしている内に普段なら見落としそうな所に小さな路を発見することは、感覚の世界では良くあることだと思います。

例えば地に足が着いた感覚が“気持ち良い”と感じている時、下半身や首から下の体の充実感そのものよりも、それを上から見下ろしている頭の方が優位となっているのだとしたら、やっぱり血は頭の方にたくさん流れ過ぎているまんま、そういうことなのかも知れません。

人に親切にする時に、その行動の根本に人を上から見下ろしていないかどうかに充分注意する必要があることと、何か似ている気がします。

僕は色んなことを系統立てて画一的に捉えたり傾向毎に分けて考えたり、それを人に当てはめるのは好きでは無いですが、体、特に下半身の充実が感覚そのものとなって浸っているのか、単にそれを頭が上から正に見下ろしているだけなのかは、それを象徴するように姿勢に表れていることは確かにあるようです。

とにかく地に足が着くということは、過去も未来も全てが今であるということを体現していることで、例えば先の予定を心配したり気に掛けるなどという心の定まらなさとは決して相容れない状態です。

心配しなくても未来はずっと地続きで、それは、その時を生きて迎えるか死んで迎えるかの違いはあるかも知れませんが、簡単に言うと未来のある時ある一日が飛び地ではなくなることです。

パスカルの「人間は考える葦である」という言葉を、僕は子供の頃ずっと「考える脚(足)」だと思っていて、ある時それは間違いだと気付く訳ですが、今はやっぱり、それ、脚(足)で合ってると思っています。

この脚(足)の働きと相互に作用する手は足よりも器用に動きますからあらゆる仕事をする場合の一見主役に見えるかもしれません。

しかし、例えばスポーツで“手投げ”と言う時、手を先頭とした上半身が主導の動きで下半身がまるで使えていないこと、良くないことを指します。

ちょっと意味がずれるかも知れませんが、喉声などと言う時、それは下半身を始めとした体からの作用が皆無の状態で喉に負担を掛けて声を出してしまっていることです。

“小手先のスイング”などと言う時も同じように、下半身がしっかり使えていない場合、良くない状態を指します。

「お前は警察の手先か!」などと言う時の“手”の位置付けが、○○の手先なんて言われたくは無いように、それだけに本来順当に体が機能している姿を良く表していると言えます。

手が主役ではない。

逆に、先ずは手が大人しくしていることで下半身は機嫌良く仕事をし始めるのです。

くしゃみが出る瞬間、ほんの少し早く誰かにくしゃみをされて止まってしまった経験はありませんか?

そのように、物事を生き生きと進行させる絶妙のタイミングがあるのと同様に、ものの見事にエネルギーを萎えさせるタイミング、逆手順も存在するのです。

ですから、手が自分を主役だと勘違いして先走って出しゃばるとろくなことがありません。

繰り返しますが、手には先ず大人しくしておいてもらうことで、下半身が本来のあるべき姿、発揮するべき力を取り戻すのです。

適材適所、活躍するべき人が各々の持ち場にピタリと決まって物事が順調に流れ出す時はそいうものです。

そして僕は、ここで述べているような、脚的な生き方、手的な生き方があって、特にこの場合の先走って順序を見誤っている手のような生き方になっていないかどうか、いつも自分の行動を省みる必要があると思っています。

このような逆手順、履き違えが度を越すと、例えば同じ教義への信仰を持ちながら教団内部で仲違いが生じて分裂するといった由々しき事態にもなることがあるようですね。

スポーツの世界を観ていて唯一の例外的体の駆動で大成功してるなと思うのは、スピードスケートの小平奈緒選手です。あれはきっと、滑りやすい足元から鋭く正確なスタートを切る為に、敢えて下半身からの始動に囚われず先に手先を素早く振ることで、その動きの波が体を循環して足に伝わる手法を採り入れておられるように見えます。

しかしこれはあくまでも、氷の上のお話です。

特に現代人である僕達は、いつも下半身に良く血や氣を巡らせて、そこからの発想や身のこなしで生活を表現したいと思います。

それはワークショップの時間が終わってからが、それこそが、本当の意味、本当の勝負です。
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