呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

前置きの話

前置きで思い出すのは、僕にこの呼吸のワークを学ばせてくださった恩師との講演活動です。

耳鼻咽喉科医で音声生理学の権威でもあられた先生に、当時慢性化していた喉の不快感、声のかすれを相談に行ったことがきっかけで、呼吸から見直してみることを勧められたのが僕と呼吸のワークとの全ての始まりです。

そうして学ぶ中で、気が付けばレッスンをお手伝いするような立場から、代行としてレッスンさせて頂いたり、学術会議やその他外部の講演会に何度も同行させて頂きました。

非常に分かり易い例えとして、一時期のアントニオ猪木さんに対しての藤原善明さんのような存在に近かったかと思います。ご納得頂けたようで何よりです。

それで大体の講演パターンとして、前半で先生の理論的な講義の後、後半で僕の実践ワークショップというのが主流でした。

それで、そういうプログラムを組んでしまいますと、多くの場合聴講者に取りましては前半の理論的解説は前置きのような位置付けとなってしまいます。

これはきっと先生ご本人もそれを承知でそのような構成にされている筈ですし、実践しなければ何の意味も無いと常日頃から公言もされていました。

しかし、その気持ちとは裏腹に、情熱の炎が迸り始めたら止まらなくなってしまう、そんなエピソードには事欠かないのが実際の講演会での光景でした。

長い長い前置き、これは勿論親切でもありますし、曲がった取り方をすると相手を見くびっていると感じさせることもあるのでしょう。

「そんなこと分かってるから早よ次行けや」っていう雰囲気に会場が包まれたのは一回や二回では無かったです。

時間配分も、回を重ねる毎に僕の持ち時間がどんどん短くなってしまって、順調に進めば45分とか30分とかだった予定が、ある時は10分程になって、それが5分にもなり、最後の方は本当に2分しか無かった時もありました。

よくサッカーで負けてる試合で何とか同点に追い付く為に、又は同点の試合で勝ち越す為に、残り時間2分とか、アディショナルタイムに突入してからFW·点取り屋の選手を交代出場させることをやりますが、正直そんなシチュエーションで出された選手からすると、「一体オレに、たったの2分でどうしろっていうの???」という気持ちだと思うのですが、全くその通りだと思います。

それで何回か聴講者と口論まがいになったりもして、横浜のヤマハでやった時は、恐らくセミプロかなんかで声楽をやっているような男性がえらい剣幕でクレームを叩き込んで来まして、出番を待っていた僕がしゃがみながら客席へ分け入って宥めたこともありました。

このようなことも今となっては良い思い出、な訳が無いですが、もうどうでも良いことではあります。

先生のご専門が音声生理学で耳鼻咽喉科医ですから、講演会の殆んど若しくは全てが、歌手、特にプロやアマの声楽家に向けてのものでした。

それで聴講者の皆さんは、歌のスキルアップ、美しい高音域の獲得や、どうすれば喉にダメージを受けずに済むのかとか、声帯ポリープや声帯結節への対処法改善方法などを聞きに来ている訳です。

そういった人達に対して先生自身が厳選した画期的な呼吸法を伝授しようとは思い立ったものの、いざ聴衆を目の前にすると、きっと何故に人はそこまでして歌うのかという命題にまで気持ちを掘り返し、毎度々々再確認しながら、それこそ自慢のお手製カレーを大事なお客様に召し上がって頂くのに、鍋の上っ面だけを掬い取るような心の籠って無さなど論外の、しっかりと鍋の底の底からかき混ぜて掬い取るような熱意を持って語り出したなら、生命の誕生から繙いて行かないことには本当に説明したことにはならないという処まで行ってしまうものなのでした。

ご参考までに、先程の横浜ヤマハでお客が怒った時は、カエルの呼吸でノドの部分が膨らむ話の最中でした。

そらぁ、あのオッサンにしてみたら(※あっ、またオッサンって言ってもうた)きっと歌に関する悩みをちょっとでも解決出来たらと、藁にもすがるような思いでヤマハへ勇んでやって来たのに、生命の誕生から話が始まって既に何十分も経過してるのにまだカエルの呼吸では、怒りたくもなるでしょうね。両生類の誕生って、何億年くらい前なんでしょうか(でも逆に考えると数十分で両生類の時代まで行けたのはめちゃくちゃ速いな、あれはああ見えて実は大サービスだったのかも知れない)。

しかし、しかしです、気持ちは汲み取れますしあの時のあのオッサン(※ 〃 )の言い分は他の聴衆の代弁でもあり正しかったと断言しますが、先生にしてみたら、今話してることを心底大事に受け取れもしないから歌も良くならないし喉も痛くなるんだよ、という話なんです、悲しいかな。

そう考えますと、落語の枕とは違い、このような人間本来の営みへと深く深く降りてゆくような話には実際には前置きなんか無くて、前置きをしているような時間的ゆとりも無い中で、何故かと言うと今生には一応の時間制限がありますから、油断してると前置きだと勘違いしてしまう位に、夜から朝に変わるちょうど境目の頃の水平線や山の稜線の光のような、和食の料理人が作った大根の桂剥きのように向こうが透けて見えるような繊細さを持って話始めるしか無いということなんです。