今日、光が丘公園を訪れてみて感じたことを少し書いておきます。
とにかくたくさんの人が居ました。
緊急事態宣言の趣旨からすると、その光景はきっと反するもの、頂けないもの、となるのでしょう。
なるのでしょう?ですよね?
先日の僕の方の屋外イベントも、やるかやらないかやっぱり悩みましたが、何人かの方々が各々の方面から集まってくださるリスクや、宣言との見事なバッティングに気分が萎えてしまった感は否めませんでした。
その宣言も初回や二回目の頃なら皆さんももっとその趣旨に賛同して、外出を我慢していた方も多くいらしたのではないかと思います。
でもここまで来るとさすがに、抑え切れない何かに気付き出している、そんな風に感じました。
なんだかんだ言ってオリンピックはやろうとしてるよね、そんなことも多くの方が思って当然の状況。
それから、この宣言期間が終わって縛りを無くしたら、そのタイミングで具体的に何が変わっていて翌日から安全と言えるの?
そんな疑問、察しの良い人ならやる前から分かるようなことも、優勢な情報に余りにも素直な人は、ある程度そのおかしな状況を経過してみないとそれが如何におかしいかに気付けないことはよくあることです。
そこを、やっと皆気付いて来たのかなと、そんな雰囲気をたくさん感じた今日の光が丘公園でもありました。
商業施設やレジャー施設が閉館・休館で、公園内でも売店や屋内施設は全部閉まってましたから、せめて広場で寛いだり、軽い遊び位はもういいでしょ、という思いが公園全体から伝わって来ました。
最近お金の概念で、こんな風に説く人が増えています。お金の本質の話です。
多くの方がお金をたくさん得たいと願いますが、それは、本当はお金では無くて、お金を払って得たい目的の方が重要な筈です。
と、こんな話ですが。
これ、お金の部分を、命に置き換えて考える切っ掛けを、今の騒ぎで多くの人が受け取ったのでは無いか、そんな風に感じています。
多くの方が出来るだけ長く命を保っていたいと願いますが、それは、本当は単なる長い命では無くて、命を使って得たい目的の方が重要な筈です。
僕はこれを偏重して全人類に押し付けよう等とは思いませんし(そんな発信力があったら苦労しません)、そんな単純な話では無いと、更に逆方向からの視点を、立場上正当に訴える方も多くいらっしゃることは重々承知している積もりです。この騒ぎの最前線で奮闘している医療従事者の方や、ご本人やご家族が基礎疾患をお持ちの方は、あんなに多くの方が外出している光景を見たくは無いでしょうし、それから、重度の障害をお持ちで寝たきりの方やその周りの方々はきっと、具体的な命の目的が分からなくても生きる権利を皆が持っている事実を強く訴えて当然です。
そんな中にあって、一人一人が今何をどうするのが良いか、自分の感性に問い掛ける習慣を、その為の普段からの心身との対話を多く持てるような、そんな社会の在り方をもっと提案・発信出来ればと思っています。