「明日の決勝戦は、変に緊張することなく試合を楽しみたい」
スポーツ選手は時折このようなコメントを出します。この場合、緊張は完全に悪いものとして語られています。
「さぁ、本日はいよいよ新装オープンの日です。従業員の皆さんは、研修で身に付けたスキルを存分に発揮出来るよう、どうぞ良い緊張感を持って、お客様を迎えて下さい!」
朝礼で店長がこのような訓示を述べた、としても違和感はないと思います。こちらの場合緊張は、気持ちの張りとして、むしろ味方に出来ることとして語られているように感じます。
今回は緊張をテーマに書こうとしていますので、無理やりその言葉をねじ込んではありますが、上の二つの架空のコメントに特におかしな個所は無いと思います。
「いつもいつもダラダラダラダラして、ちょっとは緊張感を持って生きたらどうなの!!」
このセリフにもそれほどこじつけ感は漂ってはいない、むしろ現実に何処かで誰かが言ってそうな感じもあります。
緊張は、完全には失うべきものではないと思います。
芸事やスポーツに於いて、特に大舞台になればなるほど緊張することはよくあります。ネガティブな思考が頭を支配してしまったが最後、体まで固まって普段の力が出せないことは本当によくあることです。こういう状態、冒頭のコメントにもあった緊張というのは、正確に言い表すと“過緊張”なのでしょう。
緊張≒〇 過緊張=☓
といった感じでしょうか?
でもなぜ緊張=〇ではなく≒なのでしょう?
なめらかなパフォーマンスに於いては、必要最小限な緊張が、身体の何処に分布しているかによって意味合いが大きく違ってしまうので、単純には緊張=〇印とはいかない、ということです。
肩に力が入ると、良くない事として注意される。もっと腹に力を入れるよう促される。または、全部力を抜きなさいとアドヴァイスする人もいる。
中にはこのように言われて、「具体的にどうして良いのか分からない。そのような状態が、今自分が意識してつい先ほどまでとは違う状態にしてはみたものの、果たしてそれがこの状態で合っているのかが分からない」と訴える人がいます。そして助言してくれた本人に伝える人もいれば、遠慮して直接は言えずに飲み込んだままにしてしまう人、誰か別の人に相談し、それがまた別の疑問を生んでまた別の人へ、また別の人へ・・・と延々と繰り返す人等・・・対応もまちまちです。
それはさて置きこのような形で緊張や弛緩について混乱が生じた時、教わっている人よりも、教えている方に多くの責任があると思っています。
過緊張は確かにあらゆるパフォーマンスの妨げになるから良くない。しかし緊張を完全に無くしてしまってもいけない。身体の中の必要な個所に必要なだけの緊張は生成させ、弛緩するべき個所はそうさせておく。しかもどのようなタイミングでそれらを配分していくのか?という方向性をまず示すことが指導者には必須だと思うのですが、「やっておれば自ずと分かって来るから黙って付いて来なさい」といった指導方針?の人は結構居るようです。このような、教えたり教えられたりの関係は、例えば坐禅においてとにかく坐ること、それ以外に何も無いといったような深い世界観と共通するものならまだしも、どう教えて良いか分からないからそのような指導方針になってしまっているのだとしたら、これは問題ではないかと思うのです。
そして更に問題なのは、(もしその指導者のパフォーマンスが本当に優れているとして)自分はどう優れているのか?そしてこの目の前の生徒さんやお弟子さんは、その優れている自分と具体的にどのように違っているから本来の力を発揮出来ずにいるのか?が見えているのかどうかです。このような認識が曖昧なままで、自身の感覚だけ、イメージの言葉だけで押し切ろうとすると、先に挙げたような混乱を生じさせます。
まず指導者に必要なのは、私のこの良い感覚の時、私の身体は具体的にどのような動きや姿勢を伴っているのか?を、微細に認識出来る能力です。その具体的な細やかな身体の変化は、気付きながら見る訓練さえ行えば生徒さんと客観的認識として共有することが可能です。そしてその、上手くいっている時に必ず起きている身体の動きが、学習者の方にも起きているのかいないのか?それを元に指導を進めて行けるならば、感覚だけに頼らない明朗なレッスンになると思います。
実際には人間一人ひとり身体の特徴は違いますから、上に挙げた見方・考え方にプラスして、私の身体で起きているこの微妙なバランスの動きや姿勢から来る良い感覚は、「この目の前の人にとってはどういうことなのだろう?」という思考の柔軟性、自分とほとんど同じパターンが当てはまる場合もあれば、全く違う可能性もある中で、想像力や応用力が不可欠になって来ます。こういった作業からも、当然誤差は生じますし、試行錯誤していくことに変わりはありませんが、やみくもに感覚を押し付けるのとは健全性に於いて全くの違いが出て来ます。
指導やレッスンが、こういった認識の下に行われていないのならば、お互いの成長は非常に難しいと思います。
次回から、緊張しているべき個所、弛緩しているべき個所の考察も含め、そしてそれらと心の緊張についても、続きを述べていきたいと思っています。
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2015年7月19日の記事でした。
写真は当時何年か連続で行った河津桜祭りの一角で恒例となっていた猿回しのお猿さんです。
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肩に力が入っていると目立ちやすく、改善点として指摘されることはよくあると思います。
「肩の力は抜かなければダメ」「もっと肩の力を抜いてリラックスして」「肩が上がってる、もっと下げて下げて」・・・。言われている多くの人は、全く気付いてなかった訳ではないけれども、「知らない内に力が入ってしまって、力を抜こうにもどうして良いかが分からない(だから困ってあんたの所にそれをどうすれば良いか教えてもらいに来てるんだけどね・・・)」という心理状態で膠着状態に陥ることもしばしばかと思います。
緊張させるべきではない個所が不本意に緊張してしまっている状態の代表例が、この肩です。一所懸命に努力して、さっきまで出来ていなかったことが出来るようになりたくて練習する訳ですから、出来た時の感覚はこれまでの人生で一度も味わったことのない感覚かも知れません(たまに、既にちゃんと出来ているのに、本人が想像していたものと余りにも違っているために、不正解だと思い込んでしまうパターンもあります)。それをただ、今どこそこに力が入ってしまっているという指摘だけされて、具体的な解決策を与えてもらえないのなら、焦ってしまってどんどんと迷いが増大するでしょう。しかしそれでも目の前の時間に努力の跡を残したい、間違うと指摘されるからなんとか懸命に取り組んでいる姿だけでも見せないと・・・という想いが今使える範囲内で身体を動かそうとします。その指令を最もダイレクトに受け取って取り敢えず手っ取り早く動いてくれてしまうのが他ならぬ肩と言えるのではないでしょうか?
このように考えると、反応してくれるべき理想の部位を活性化させない限り、安心して肩に休んでいてはもらえないと思うのです。なんとかしよう、上手く出来るようになって認めてもらおうという気持ちを肩以外で表現する術を知らずに肩すら何もしなくなったとしたら、「サボるな!気を抜くな!」と怒られそうな心配も出て来ます。ですから指導者は、「肩を下げなさい」というアドヴァイス?をしている時間があるなら、その代わりに正しく使われるべきその他の部位を、身体に理解させるような取り組みをするべきだと考えます。
このような、メッソドの良し悪しを述べた文章を、多くの同業者は内心ドキドキしながら読むことも多いでしょう。自分のやり方がヤリ玉に挙がっていれば、どんなに無名の素人の戯言でもそれは心中穏やかではないですから。そんな中でも、ここまでの内容に賛同して下さる方はかなり多いと思います。世の中には腹式呼吸という言い方を筆頭に、胸の浅い個所だけで呼吸をするのは身体に良くない、もっとお腹を使って呼吸をするべきだ、との考え方がかなり一般常識として流布されているのは事実です。
では、「肩の力を抜きなさい」の代わりとして有効なのは、「もっと腹に力を入れなさい」でしょうか?それとも「横隔膜で支えなさい」でしょうか?「お腹に手をあててそこに息を吸い込みましょう」「腰の辺りが膨らむように息を入れて」「丹田を意識して」・・・。
さてこれらの中に理想の答、正解はあるのでしょうか?
今ここで言えるのは、後ろ向きに適当に放り投げたボールでも、たまにはゴールに入ってしまうことも無くはない、ということです。ここにわざとらしく撒き餌のように挙げたのは、取り組むためのプロセスではなく到達地点としての結果を提示したに過ぎないものや、ヒトという生物として自然にあるべき呼吸のシステムを誤解させるような、そんな一面を孕んでいるように思われる言葉の数々
なのです。
ではどうすれば良いのか?続きはまた次回に。
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2015年8月2日の記事でした。
写真はお分かりの通り鎌倉の大仏様。実はこの写真、塀の外側から撮影したものです。塀にある格子窓の隙間にレンズを合わせるとこんな風に撮れてしまいます。
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声を出す、歌う、何らかのパフォーマンスをするその時に肩に力が入らないようにする、その為に・・・例えば腹に力を入れてみる。
一見シンプルな解決策に見えなくもないこの短い言葉が、新しい迷いを生むきっかけになることも多くあります。
どうしても抜けない肩の力を抜く、これをマイナスの作業とすると、腹に力を入れるのはプラスの作業ですから、意識的に行いやすい点で若干易しいかも知れません。しかしちょっと自分でやろうとしてみると分かりますが、「果たしてこれで合ってんの?」という不安がすぐに現れます。シットアップに代表される腹筋運動のように力を入れることも可能ですし、排泄行為のようなやり方も出来ます。或いは腹芸のようにお腹を引っ込めたり突き出したりするパターンも考えられます。息を詰めてじっと身体を固めることでもなんとなくお腹に力が入った感じがします。これ以外にも色々なパターンがあるでしょうし、それらが混ざり合って人それぞれ、その時々でも違ったものが出て来ます。
指導者の経験と眼力で、突然出て来る正解を「それだ!」と漏らさず指摘するやり方で、教わる側は次第に正解率が上がる、という方法が世間一般では多く採用されているようです(この時指導者の感性がご自身の癖ではなく、あくまでも自然の摂理に則ったものであることを願わずには居れません)。
教わる側は、「何故今急に出来たのだろう?あれっ、どうやるんだっけ?さっきと同じようにならない」と再び試行錯誤しながら、また突然「それで良い!」と褒められたりする。
身体の使い方を学ぶ時、便宜上どこかキーポイントとなる部位から良い連鎖を起こそうとする取り組み方は決して間違いではないと思います。そしてその反応を、指導者と教わる側の信頼関係の中で大切に見守りながら育てて行くのがレッスンだと思うのです。
そうした最低条件の中に於いて、腹に力を入れるというキーワードは、正しい連鎖のスタート地点には相応しくないと感じます。
腹部の理想的な緊張は、意識で起こすものでは無く(非常に効率が悪いという意味で)、もっと他のスタート地点として相応しい部位から伝わった連鎖の一つの結果として、又は中継地点として、後発的に現れる現象だとする方が、圧倒的に解決は早くなります。
それは、私達が暮らすこの現世には重力があるからです。
腹部だけがその場にぽっかりと浮かんでいる訳ではなく、その他の部位の積み重ねの途中に “ 腹筋・お腹・丹田・・・ ” どんな呼び名や概念であろうとそれは在ります。
話を初めから整理しますと、例えば肩を緊張させない為にお腹をその代替的支持部位に任命して積極的に働いてもらおうとする時、更にそれを支えているものを見逃してはなりません。腹部ですらそうなのですから、その上部に位置する横隔膜を第一に意識して支えるのは、もっと不自然だと言えます(※ここまでの話は主に座位・立位についてであり、寝転がったり四つん這いの姿勢では、他の多くの哺乳動物達と同じように身体が地面と平行になり、直立姿勢特有の複雑な条件から解放される為にこのような苦労からは解放されると、恩師米山文明先生から教わりました)。
腹部はどこが支えてくれているのでしょう?ずっとずっと下へ辿って行きましょう。そこに答はあります。地面(や椅子の座面)との接点に辿り着く筈です。
そこで何が起きているのか?そことどのように接することが出来ていて、どれだけそこを信頼して自分という存在を預けることが出来ているか?骨や筋肉その他物質としての重みと、心からの信頼感がもたらす重みを完全なる信頼の下にそこに預ける。
これら条件が整った時に、腹部の絶妙な緊張は生まれ、そして肩の緊張は必要が無くなるので自然と解消します。
同じ試行錯誤をするなら、地面への預け方に工夫を凝らす方が効率が良いという解に、なんとかご案内出来たでしょうか。また次回以降、更に詳しく掘り下げる積りです。
達人が必ずしも説明や伝達の達人とは限らず、最も自身の中で意識の高い感覚を取り出して「貴方もこういう感覚になりなさい」という意味で指導することがあります。腹部の緊張、丹田の意識・・・。これらがあたかも自分の意志だけで突然現れた感覚で、そのまま他者に伝播させようとしても多くの場合無理があります。指導者には、 “ 私のこの心地好い感覚が育まれた背景 ” の上流に妥協なく遡り、その遡った地点から伝える責任と義務があるのではないかと思うのです。これは勿論ここで述べている印象以上に簡単なことではなく、きりが無い作業です。但しいくらきりが無いと言っても、その責任に気付きながら常に深化し続ける姿勢と共に指導出来ているかどうか?は心がけ次第で、最も大切なことだと思うのです。
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2015年8月28日の記事でした。
茶柱の写真、これは勿論フリー画像等から拾って来た物ではなく、自分の目の前のお茶でリアルに撮った物です。