呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

呼吸法と歌にとうとう言及②

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ある坐禅の本にこのようなやり取りが載っていました。

人生のある時期に災難ばかり続いたある人が、藁をも掴むような気持ちで禅寺を訪ね、「坐禅でもすればこの悩みは解決しますか?」と偉いお坊さんに相談を持ち掛けました。

そしてそのお坊さんの答は、

「お金儲け以外、坐禅で全て解決します。」

というものでした。

・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・。

歌を勉強されている方の多くが、もっと高い声を出せるようになりたい、長いフレーズを楽に歌い切りたい、綺麗で繊細なピアニッシモで歌いたい、スムーズに頭声へと繋げたい、もっと遠くに声を飛ばせるようになりたい・・・等の悩みを持っておられます。簡単に言ってしまえば、もっと歌が上手くなりたいということです。

筆者は普段からそのような悩みに接する機会が圧倒的に多いので、この禅寺でのやり取りを読んだ時、すぐに歌唱の悩みと頭の中で繋がりました。

このお坊さんの言葉を借りるなら、歌に関する様々な悩みも坐禅をすれば解決するという訳です。

ここまで読んで鼻で笑った方も多いことでしょう、そんなバカなという具合に。

筆者は笑うどころか 「多分、解決するだろうなぁ~」 と大真面目に頷きました。

ここで言う “ 解決する ” の内容は、大きく二つに分けられると思います。

一つは高い声やロング・ノートが苦もなく出せるようになってしまうことです。

もう一つは、出来ない事に執着するのをやめて、今自分に出来ることの中で精一杯表現する道を見出すことです。

坐禅で解決という発想からして、後者の考え方が如何にも “ らしい ” と感じてしまうかも知れませんが、今回のこの雑文の内容はそんなことを押し付けるものではないのです。

呼吸法をやっていて永遠とも言える課題が、身体と呼吸と心が一つであるという原点に戻れるか?です。このような状態に立ち戻ることが出来た時、自ずとその人本来の声も全く同時にそこに存在します。これら三つ+一つ=四つは、それぞれ順番に獲得するものではなく、僅かな時間差も無く全く同時にそこにやって来ます。

ですから呼吸法のレッスンを重ねて上達するにつれ、惜しい瞬間が度々訪れるようになって来ますが、現実にはその惜しい状態はどんなに惜しさの度合いが上級でも捨てる勇気が必要になります。惜しいはあくまでも惜しいであって、その上には正解は乗っかりません、悲しいかな(但しその惜しいが全く無駄かと言うと決してそんなことはありません。確実に正解に近付いている証である場合も多々あると思います、ややこしい言い方ですが・・・)。

賢明と思える歌の先生は、高音が上手く出ないのは、実はもうクリア出来ていると思い込んでいる中音域に、更に改善の余地がある為であることを指摘します。

坐禅を通して身体・呼吸・心が一つになった時、自ずとその人本来の声も同時にそこに存在すると先ほど述べました。つまり、支えるべき個所と支えられている個所のバランスが自然本来の姿を取り戻した時、当然喉は完全に解放されているのです。

筆者の今の課題の一つは、坐禅やヨガ、それからATT以外のボディ・ワーク、例えばアレクサンダー・テクニーク(こちらも歴とした声のメソッドです)等に比べて、ATT(アーテム・トーヌス・トーン)がどれ程 “ 声の為 ” に特化されているのか?を再検討してみることなのです。

 

 

呼吸法と歌にとうとう言及

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歌手のマドンナが生活にヨガを取り入れ、その影響がステージにも及んでいるというような発言をしてからもう随分と月日が流れました。この場合ヨガと歌が関係性を持っているとは、ヨガのポーズをしながら歌うということでは勿論ないと思います(ヨガのポーズをしながら歌ってもそれは自由ですが)。

スポーツ選手は色々なトレーニングをします。走る競技以外のアスリートでもトレーニングで走ることはよくあります。しかも野球の投手は、ピッチング練習の時間よりも多く走ったりするかも知れません。また、格闘技の選手でもヨガを取り入れていたりもします。護摩業や坐禅等もあるようです。このような選手が試合中にポーズをとって瞑想をする場面は考えにくいです。

良し悪しの判断は別として、バーベルを持ち上げる、腹筋運動をする、逆立ちをする等その他色々・・・。これらトレーニング中の動きと全く同じ動きを、実際の競技中に行うことはあまりなさそうです。その動きで養った筋肉を駆使して実践に臨む訳です。

具体的なトレーニング以外でも、食事の面から見直す、睡眠の質や生活習慣を変える、本を読んで自分を変える等、よりよいパフォーマンスの為には周りの環境全てが無関係ではないという認識の下、自分に合ったトレーニング法を開発して行く能力が非常に大切だと思われます。

ここで例えば野球の投手が、「試合でほとんど走る場面なんかないのだから、こんなに走って何の役に立つのか?」と言ったらどうでしょう?

またマドンナが「ステージで実際に歌う時にこんな変なポーズをいちいちしてられない!」といってヨガをやめたとしたら・・・。

他にも柔道家が、「投げられたら負けなのに、受け身の練習なんか時間の無駄だ!」と言ったとしたら・・・、どのように思うでしょうか?(柔道が護身術の一種ということや精神修養への道といった、ある意味本質的なものからどんどん遠ざかり、ただ単に勝ち負けを争う競技スポーツ化の一途を辿るならば、このような言葉が現実的にならないとも限りませんが、今回の主題からは遠のいて行きますので、横道に逸れるのはこの位にしておきます)

呼吸法のレッスンをしていると、「確かに呼吸は楽になりますけど、こんなことしながら歌うんですか?」とか、「座ってばかりですが、私は立って歌いますから立ったらどうなるんですか?」とか、「実際に歌うと緊張してしまうので、どうすれば歌と繋がりますか?」といった質問が、度々出て来ます。

呼吸法を実践していてそれが歌にも良く反映されている方を観察すると、呼吸法に取り組んでいる間は歌のことなんか全く頭から飛んでいるように見受けられます。これが歌にどう繋がるとかそんなことは既に頭の中から消えていて、気持ち良い・楽しい・眠い・・・といった純粋なところに入っておられるようなのです。

そのように損得勘定抜きの純粋な世界に一時(ひととき)の間浸り、その経験を経た身体と心(=呼吸法をやっていた私と紛れもなく同じ私)で、歌う時が来たらただ歌ってみる。

その時に本当に全くなんの変化も無い(呼吸法の好影響が見られない)のだとしたら、それはきっと、純粋に呼吸法に没頭している時間が足りていないのではないか?と思うのです。

呼吸法は決して歌に繋げたり、また繋がらなかったりするような、そんな考え方の入る余地のないものだと思っています。

呼吸法を経験した心身でもって歌う・・・ただそれだけだと思います。

 

村上春樹さんが述べていることと、This is a pen.バッシングを絡めて考える

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つい最近、村上春樹さんの本を初めて読みました。数ある村上さんの著書の中から偶然手に取った初めての一冊は、『走ることについて語るときに僕の語ること』です。

この中に、全く同感であると思う文章がありました。

(引用→)決まったことを、決まった手順で、決まった言葉を使って教えられる教師はいても、相手を見て、相手の能力や傾向に合わせて、自分の言葉を使ってものを教えることのできる教師は数少ない。というか、ほとんどいないと言ってもいいかもしれない。(←引用終わり)

決まったやり方で事足りるならば、VTR教材や近い将来にはロボットが教師の仕事に完全に取って代わるしょう。

指導者とか教師という立場の人を育てる育成プログラムは、型やマニュアルを数多く覚える時間ではなく、臨機応変で柔軟な対応が出来る人になる為の時間であってもらいたいと思うのです。養成される人々も、たくさんの事例やその時々の対応法を頭の中でリスト化するよりも、物事の中心にいつもあるものを瞬時に見極め、そこから自分が取り得る最良の道を選択出来る感性を養うこと、それだけを目指してもらえると良いと常々勝手に思っています。

習ったことがあるからこの事例には対応出来ます、これは習ったことが無いから分かりません・・・。

もちろん自身の手に余る問題をうやむやにしないで、然るべき機関や人材に送り届ける潔さと正直さは最も重要な資質だと思いますが、世の中には、とにかく今なんとかしなければいけない場面というのが結構あります。十分な選択肢と、選別している時間的余裕すらなく、今この瞬間に判断してなんとか一つの答を捻り出すしかない、そんな時。そこでは考え得るパターンのリストが役に立たないというのではなく、パターンのリストに頼らないと心許ないという気持ちそのものが、肝心な場面ではその人を役に立たなくする可能性があると思っています。

増してやその対象が “ 呼吸 ” という深遠なる世界であれば、人間一人ひとり、出会うその時々に於いて対応するしかないと思うのですが・・・。

英語教育で、“ This is a pen ” なんて実際の会話では使わない(だからそんなフレーズを習っても時間の無駄である)、という批判があります。きっと最初にThis is a penを教科書に導入した人も、まさか会話でThis is a penがそのまま使われることは想定していないと思うのですが。英語にこれから出会う人の為に、シンプルで取り換え自由な一つの骨組みとして、たまたま “ This is a pen ” を提示してくれたに過ぎないのだと思います。

今は、よりリアルなフレーズを集めた教材が多く出回っており、ネイティブが聞いても “ 恥ずかしくない ” 言い回しをたくさん覚えようという傾向が強いようです。

ものの言い方、表現様式は日々刻々と変化しており、日本語でも “ ナウい ” に代表されるように、使うと恥ずかしい言い方がどんどん増えて行き、言葉は古くなって行きます。フレーズをたくさん覚えるというやり方は、それをひたすら追いかけるということにもなりかねない訳です。

結局物事の成り立ちを骨組みから理解し、そこにどのように肉付けされて行くのかという最低限のルールを元に、自分の感性と融合して出て来たものが、その人の言葉に成る、それで良いように思うのです。その人特有の言い回しとでも言いましょうか。

たまたま知っていたスマートな言い回しのお陰で、外国人とのコミュニケーションが円滑になった。その反面、自分が本当に言いたかったことに、一番 “ 近かった ” に過ぎない表現で良しとした代償は、決して小さくなく後々に影響を及ぼすことがあると考えます。

今この瞬間に史上初めて生まれた一見突飛な伝え方であっても、本物が伝わるならばその方が良い。出来合いの表現で適当にやり過ごす要領の良さと、もどかしくとも妥協なく懸命に本物を伝えようとする熱意の差がきっと表れます。

パターン、リスト、カタログ・・・、そんなものに頼らないもっと自由で創造的な世界を見付ける手助けが、教員や指導者の養成メソッドであり、その教えはその次の、そのまた次の世代に受け継がれて行くことになる筈だと思います。

ノーベル賞候補の村上春樹さん、さすがです(勝手に乗っかってすみません)。

 

何故はっきりと言わない場合があるのかをはっきりと説明してみる

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先日知り合いの方が、「ある音楽会で『フレーズの増減が出来ない人は、山田耕筰を唄っちゃダメ!』とコメントした審査員が居て、とても面白かった」という話をしてくれました。

これから書くことは、上記コメントの内容について深く立ち入るものではありません。“ はっきりとものを言う ” の良い例として使わせて頂いているだけなので、どうか読者の皆様もここで引っ掛からないで下さい。意味を考えたり正しいとか正しくないとか・・・。

世の中にはこの例のように、はっきりと一刀両断に物事を判断し、ものの見事に言葉にして、人々の印象に残すタイプの方が居られます。

勢いが余ると “ はったりを利かせる ” ことにも繋がりかねない(念を押しますが、上記コメントがはったりだと言っている訳ではありません)表現形式だなぁ~、等と思ってしまうのが筆者です。もし同じ立場で、同じことを感じていたとしても、この例のようには決して言わないであろう自分が居ます。

その辺りの思考の構造を簡単に探ってみますと、こうです。この審査員が何年後でも何十年後でも構いません、ある唄を聞いてこういうコメントをしているシーンが想像されるのです・・・「私は今の今までフレーズの増減が出来ない人は山田耕筰を唄っちゃダメだと思い込んでいました。しかし貴方の唄を聞いてその考えが変わりました(いやぁ~、いい勉強になりました、ありがとうございます)。」

人間にはそれこそ無限の可能性が秘められている訳ですから、上に挙げた想像で述べたような出来事が起こる可能性は決して無いとは言えない、否それどころかごく普通に存在する筈です。

そんな訳で冒頭の審査員のコメントを自分流に言い換えてみると、次のようになると思います。

「私は未だかつてフレーズの増減が出来ない人で、山田耕筰を上手く歌いこなせた人を残念ながら見たことが無い。」

これまでの経験で自身が知らないだけのことを、それが全ての答であるかのようには言えない、「何様の積もり?」といつも自分に問い掛けながらものを言うようにしているので、だからいつもいつもはっきりと判断して良い悪い等を言えない場合があるという、そんな説明でした。

はっきりとものを言う人の方が、話も明解だし頼り甲斐があって付いて行きやすい、そういう人の方が商売も上手く行くのかな?とは思いますが、はっきりしない人に対しては闇雲にイライラすることなく、その人の豊かな想像力と、もう一歩先を見据えた思慮深さに因るところが大きいということを理解して頂けると、非常に有り難いと思います。

はっきりと意思表示をしない国民性、欧米人による日本人観に関わる諸問題にしても同じ見方が出来そうだと、そんな風にも思えて来ます。

“緊張”に関する指導、アドヴァイスから見えて来るもの③

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声を出す、歌う、何らかのパフォーマンスをするその時に肩に力が入らないようにする、その為に・・・例えば腹に力を入れてみる。

一見シンプルな解決策に見えなくもないこの短い言葉が、新しい迷いを生むきっかけになることも多くあります。

どうしても抜けない肩の力を抜く、これをマイナスの作業とすると、腹に力を入れるのはプラスの作業ですから、意識的に行いやすい点で若干易しいかも知れません。しかしちょっと自分でやろうとしてみると分かりますが、「果たしてこれで合ってんの?」という不安がすぐに現れます。シットアップに代表される腹筋運動のように力を入れることも可能ですし、排泄行為のようなやり方も出来ます。或いは腹芸のようにお腹を引っ込めたり突き出したりするパターンも考えられます。息を詰めてじっと身体を固めることでもなんとなくお腹に力が入った感じがします。これ以外にも色々なパターンがあるでしょうし、それらが混ざり合って人それぞれ、その時々でも違ったものが出て来ます。

指導者の経験と眼力で、突然出て来る正解を「それだ!」と漏らさず指摘するやり方で、教わる側は次第に正解率が上がる、という方法が世間一般では多く採用されているようです(この時指導者の感性がご自身の癖ではなく、あくまでも自然の摂理に則ったものであることを願わずには居れません)。

教わる側は、「何故今急に出来たのだろう?あれっ、どうやるんだっけ?さっきと同じようにならない」と再び試行錯誤しながら、また突然「それで良い!」と褒められたりする。

身体の使い方を学ぶ時、便宜上どこかキーポイントとなる部位から良い連鎖を起こそうとする取り組み方は決して間違いではないと思います。そしてその反応を、指導者と教わる側の信頼関係の中で大切に見守りながら育てて行くのがレッスンだと思うのです。

そうした最低条件の中に於いて、腹に力を入れるというキーワードは、正しい連鎖のスタート地点には相応しくないと感じます。

腹部の理想的な緊張は、意識で起こすものでは無く(非常に効率が悪いという意味で)、もっと他のスタート地点として相応しい部位から伝わった連鎖の一つの結果として、又は中継地点として、後発的に現れる現象だとする方が、圧倒的に解決は早くなります。

それは、私達が暮らすこの現世には重力があるからです。

腹部だけがその場にぽっかりと浮かんでいる訳ではなく、その他の部位の積み重ねの途中に “ 腹筋・お腹・丹田・・・ ” どんな呼び名や概念であろうとそれは在ります。

話を初めから整理しますと、例えば肩を緊張させない為にお腹をその代替的支持部位に任命して積極的に働いてもらおうとする時、更にそれを支えているものを見逃してはなりません。腹部ですらそうなのですから、その上部に位置する横隔膜を第一に意識して支えるのは、もっと不自然だと言えます(※ここまでの話は主に座位・立位についてであり、寝転がったり四つん這いの姿勢では、他の多くの哺乳動物達と同じように身体が地面と平行になり、直立姿勢特有の複雑な条件から解放される為にこのような苦労からは解放されると、恩師米山文明先生から教わりました)。

腹部はどこが支えてくれているのでしょう?ずっとずっと下へ辿って行きましょう。そこに答はあります。地面(や椅子の座面)との接点に辿り着く筈です。

そこで何が起きているのか?そことどのように接することが出来ていて、どれだけそこを信頼して自分という存在を預けることが出来ているか?骨や筋肉その他物質としての重みと、心からの信頼感がもたらす重みを完全なる信頼の下にそこに預ける。

これら条件が整った時に、腹部の絶妙な緊張は生まれ、そして肩の緊張は必要が無くなるので自然と解消します。

同じ試行錯誤をするなら、地面への預け方に工夫を凝らす方が効率が良いという解に、なんとかご案内出来たでしょうか。また次回以降、更に詳しく掘り下げる積りです。

達人が必ずしも説明や伝達の達人とは限らず、最も自身の中で意識の高い感覚を取り出して「貴方もこういう感覚になりなさい」という意味で指導することがあります。腹部の緊張、丹田の意識・・・。これらがあたかも自分の意志だけで突然現れた感覚で、そのまま他者に伝播させようとしても多くの場合無理があります。指導者には、 “ 私のこの心地好い感覚が育まれた背景 ” の上流に妥協なく遡り、その遡った地点から伝える責任と義務があるのではないかと思うのです。これは勿論ここで述べている印象以上に簡単なことではなく、きりが無い作業です。但しいくらきりが無いと言っても、その責任に気付きながら常に深化し続ける姿勢と共に指導出来ているかどうか?は心がけ次第で、最も大切なことだと思うのです。

歌うこととは・・・?

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中華バイキングのお食事と歌のお届け物、そんな企画で歌わせて頂きました。以前同じ催しで歌ったのが7年前になるのだそうです。

ところで、時々テレビで懐メロ番組というものが放送されますが、往年の有名な歌手の方々を観て「以前のように声が出なくなったなぁ~」と思うことがよくあります。

7年前に歌った時、そのように声が出なくなる感覚を想像することは非常に難しいことでした。練習として歌うことに身体が反応しない体質なので、リハーサルも含め、身体ごと本気で歌いたい時以外は大きな声も出ませんし、自分の声域の中での高音域も全く出せません。

しかし、例えば聴衆が居て下さる場など、「さぁ、歌うぞ」という場に臨むとたちまち別人のように声が出る、そんな経験をずっとして来ていました。

普段どのように声を育て、守っているか?技術的なことも含めて非常に大切なテーマだと思います。最近は他の方々の声をケアすることが中心で、自身の声のケアに関して無頓着な傾向は続いています。なのでその辺りを今一度見つめ直すことは当然重要なのは理解している積りですが、今回約7年振りに歌ってみて、その準備期間も含めて身体が感じたことは、懐メロ歌手の声の問題への理解を少し深めました。

少なくとも7年前は、歌えば(叫べば)なんとかなると思っていた・・・けれども年齢を重ねた結果、“いくら叫んでもどうにもならない事もある” と、妙にもの分かりよく、変に納得している自分がそこに在ったのではないか?と思うのです。

もちろんこれはあくまでも現時点での途中経過に過ぎず、今後どうなって行くのかは知る由もありませんが。

懐メロ歌手は、例え叫んでもどうにもならないと気付いても、もうどうにもならないこともある・・・のかも知れません。

番外編 : 中華バイキング付きライブ or ライブ付きビュッフェ

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なかやま が、ギター弾き語りでライブ出演します。

笹塚の Blue-T さんにて、三富(みとみ)ライブというイベントがあります。これはお店ご自慢の中華バイキングを楽しみながら、同時にこのイベントの企画者である三富さんが掻き集めた様々なミュージシャンの歌を聴く、プレミアムなイベントなんです。

私の歌はともかく、とにかくお料理がどれも美味しいものばかり!!

お時間のある方は是非とも、ご来場下さいませ!!

  8月12日(水)

  開場6:30、ライブ開始7:20頃を予定

  料金2,400円 (全て込み)