呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

突然ですが、学ぶとは(※この記事を書き始めた時期はかなり前で、一旦は公開せずに寝かせてあった為、その後に公開した記事と内容的に重複するような箇所がありますが、敢えて改編せずにそのまま掲載しています、予めご了承ください)

浜田省吾というミュージシャンが居られます。僕はこの人の事を殆ど知りません。カップヌードルのCMソングや少しのヒット曲は知ってますし、吉田拓郎さんのバックでドラムを叩いておられたというのも聞いたことがあります。必殺シリーズ和田アキ子が歌った主題歌の作曲者だったことが最も印象的なエピソードで、あとはダウンタウンのガキ使で、“浜省だらけの野球大会”という本当にバカバカしい回があったのもよく覚えてます(このガキ使の企画は姉妹版として“美空ひばりだらけの······”もありました)。それ以外には何の知識も興味も無く、今回特にこの人に付いて書く訳ではありません。

昔ちょっとした知り合いにこの人の熱心なファンがいて、そいつが「浜省は作品を発表する間隔が長過ぎる」と愚痴をこぼしてばかりいました。

浜田省吾は日本のミュージシャンでは珍しく、一定の間隔で作品を発表しなければならない反芸術的な商業契約に侵されずに活動する権利を勝ち得たと思われる稀少な存在であるらしいのです。

そのことで、もっと頻繁に新曲を出せばいいのに、と、よせばいいのにそんなことを嘆いたのです。

そのファンは、当然浜田省吾の歌が好きで気に入っていて感動する訳ですが、その大好きな作品が産み出される要因として、その製作にかける時間という要素も物凄く重要な役割を果たしていることに全く頭が回っていません。

そのペースも含めて応援してあげなければならないのに。そのペースで活動出来ることにも惚れてあげなければならないのに。そのペースでやっと手元に届いた渇望感も新しい曲を聞く時の情熱と集中力の生成に一役も二役も買っているというのに。

浄土真宗の開祖・親鸞聖人の言葉に「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候」(たとえ師匠である法然上人に騙されていて地獄に堕ちたとしても、親鸞は何の後悔もないのだ)という有名な一節があります。

本来、自分が本当に成長する為に学ぶということが人生の中でもしもあるのなら、例えほんの一時期でも、この親鸞のように一心不乱に尽くすような時期が必要だと思います。

 

極論、突き詰めると、病むということは、結局自分が一番賢いと思っていることから始まっているように思います。

僕は、心理カウンセリングの勉強を現在も細々と継続中の積もりですが、未だ正式なクライアントとして面接に臨んだこともない素人です。

そんな僕がこれまでの貴重な学びの中で感じているのは、「この目の前の人を何とかして変えてやろう」と企んでいるのはカウンセラーではなくクライアントの方だということ。

カウンセラーはきっと、自分が変わりたいと訴えて来ているクライアントが、実はそのまんま今のまんまの自分を受け入れる事さえ出来れば、それが正真正銘変わることだという究極のパラドックスがバーンとクライアントの向こうに透けて見えていながら、それをもあからさまに前提とはしない居住まいでそこに在ることをやってのけている人なのではないかと思います。

 

習う、倣う、学ぶことに、質問はあっても提案はあり得ない、これは僕が“自分の意志で”生徒や弟子になった時の極自然な内なる感覚、姿勢です。

そのように心掛けて学ぶということではありません。僕にとって学ぶとは、極力自分の影響を逆流させずに純度高く学ぶ対象の全てを心身に浸透させることであって、そのように感じさせてくれることだけにしか懐に飛び込まないということです。

例えばお知らせの用紙がチープで印刷もガタガタで内容もたまに間違ってたりしても、「そこがまたいい」「こんな感じだからこそここで学びたい」と感じたもの、連絡の頻度が緩慢で忘れそうにすらなるようでも、「それがまたいい」「このゆっくりとしたリズムだからこそここで学びたい」と喜べるもの、案内の地図がはっきり言って不正確で現地まで辿り着けない可能性すらあっても、「こんなん今どき珍しい」「回り道もいいもんだ」と微笑ましくもあるもの、にしか興味を示さないということです。

何故かって言うと、今挙げた例の逆、つまり便利な世の中、キチッと情報が整理され過ぎた世の中に対して疲れている自分が感じている疑問を解毒してくれそうな雰囲気をそのいい加減さに感じ取っているからだと思います。そしてそれを醸し出してくれる人やグループを、天然記念物のように大事にして、その恩恵になるべくたくさん与りたいと思うからです。

それらを改善したらもっと繁栄しますよとか、学ぶ立場に極ったら、一切そんなことは浮かびようがない、それが自分にとって学びモードに入ることです。

もうかなり前ですね、アントニオ猪木VSグレート·ムタという試合がありました。

恐らく週刊プロレスという雑誌だったと思うのですが、グラビアの見出しに「毒とペルソナ」と書いてありましたっけ。

ムタの毒霧で顔面がグロテスクに色付いた猪木とは対照的に、ムタの方は試合が進むにつれて顔面に施したペイントが剥がれ落ちてほぼ素顔の状態になるという逆転現象が起きていました。

更に思い浮かぶのは映画「エクソシスト」、あの歴史的名作のクライマックスでは、神父が最後の手段として少女に取り憑いているモノを自らに乗り移らせて衝撃の結末を見ます。

 

僕はいつも身軽でいたい、荷物は最小限に。本当はスマホなんか持たずに、細かな連絡からは解放されたい。そんな体と心で僕のワークショップに来てくれる方とお会いすることを優先したい。

何故なら本来ならば、それをその人達の本質は求めているから。

ところがその本質を被う外皮の部分は、そうはさせじと色々な策略を繰り出して来ます。それを抵抗というのだと、思います。

では、そこに気付いてその提案を悉く斥けることが正解なのかというと、そんな単純な話ではあり得ません。

抵抗が繰り出す策略と分かりながらも敢えてそれらを受け容れ逆に悉く採用し自分が柔軟に変化していく様を見てもらう。果たしてこれが、“肉を切らせて骨を断つ”と相成るのかどうか?は賭けのようなものでしょうが、他を受け容れて変わる姿を目の前に生身で提示することは、斥けるよりも何倍も尊いことだと思います。

しかもその柔軟な対応名義が、自分の決定的な弱さ軟弱さ優柔不断さに起因したものではない保証があるのかをも常に精査観察しながらの時間を過ごすことになる。

しかし言ってみれば、善かれ悪しかれこのような綱渡りが、全て懸けて、人と向き合うことの大事な大事な一面だと思って日々を生きています。

 

今一度申し上げますと、僕が何かを習っているとき、その先生や師匠に対して、一切の提案や意見を持ったことはありません。そのようなものを持った時、いつの間にか心に浮かび始めた時、それは非常に寂しくもあり、ある意味残念なことではありますが、もう卒業、巣立ちの時期となります。

但し卒業し巣立つことが出来るのは、一心不乱に学びに没頭した時期がある人だけで、そういう時期を一度も経ずに、学ぶ対象に対して初めから全重心を預け切れていない人は、正式には入学も入門も出来ていないのですから勿論卒業することも巣立つことも出来ません。そこで離れていくならそれは、ただ単に辞めること、挫折することです。

子供でいうと、何の特別な訓練も受けていないのに母国語、周囲で話される言語を忠実に習得してしまえる時期と、もうそのようなオートマチカルに物事を自然に吸収出来る能力が何処かへ去ってしまった後の時期、この二つ位に違いは歴然としています。

唯、目や耳や心を皿のようにして、師の一挙手一投足を注意深く受け入れて黙って静かに内に納めて、滅多なことでは質問すらもせず、全てが内面へと繋がるように大事に大事に時を過ごした、それは、本当に、自分が、“成長したかった”からだと、思います。

ここまで書き綴って来たような事は、これまで数々のワークショップで繰り出されたワークの中に、メッセージとして静かにしっかりと織り込まれています。

そして唐突に話は飛躍しますが、今現在は僕にワークショップを通じて会いに来てくださる方全員が、僕の“師”であり“先生”です。

こんな風に学んだ時間、皆さんの一生の中に、どれ位ありましたか?それとも、今そんな風に学べている何かが、ありますか?もし未だそのような学びの経験が無いのだとしたら、この一生の内に是非そのような学びの対象を見付けられること、そのように感じ一心不乱に取り組ませてくれる師という存在に出会われることを心から願います。

そのように思わせてくれる人を“師”とか“先生”と呼ぶのだと僕は思います。

よく学校でも職場でも、却って侮ってる相手に対して“○○センセー”とか“シショー”なんて茶化すことがありますが、本当の“先生”や“師匠”にはなかなか出会えないものです。

本当の師に出会い本当の学びの時期を過ごすことは、本当に、良いもんです。
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