呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

⚠️延期します⚠️📣珍しく、イベント告知📣⚠️延期します⚠️

4/25(日)「溝の口 nokutica(ノクチカ)」屋外庭園型レンタルスペースにて、"久しぶりに、呼吸(イキ)しましょう"というワークショップ+質問その他近況報告や懇親会的なイベントを開催させて頂きます。

http://nokutica.com/

 

時間は10:30~17:00で、参加費¥2,000-にて出入り自由です。

※マスク着用でお願い致します。

 

どんな事をやるの?って思いますよね。

例えば、幕張メッセとか国際フォーラムとかでよく行われる見本市やなんか、ああいうののブースがポツンと一つだけあるような、そんなイメージをしてます。
誰ですか、寂しそうって言ってるのは。あなたが来てくれれば寂しくなんか無いのです。

それで、間違って幕張や有楽町へ行かないでくださいね。今回イベントやるのは溝の口ですよ、溝の口

 

お問い合わせ等は

↓こちらのHPからメールでお願いします↓

※ https://tonus-mn.jimdofree.com/

レッスンとは間を持たせる為にやることなのか

ある程度地面から見て垂直な位置関係に体を立てて、脱力すると広がるエリアは背中。

上体の力を抜いてダラッとすることは多くの人に取って特別に難しいことでは無いと思いますが、そのことが即ち体に空気を取り入れることにもなっているのを意識して体験するとなると、難しくなってしまう人が必ず出て来ます。

生きている間中の殆どを占める普段の普通の呼吸、僕の言い方で言うところの切り替わってない方の呼吸ならば、ただじっとして自分の呼吸を感じられるようになれば、いつでも何処でも実感することが可能です。

しかし、切り替わった方の呼吸とは、極論すれば自分の呼吸を確認するよりも重要な、エネルギーをアウトプットするべき何らかの必要性に駆られて反応し発動するものですから、それを実際には何かをアウトプットしなければならない事態でもない時に擬似的に再現するのは難しくても当然、仮に出来なかったとしても何ら気に病むことの無い話です。

だから、前にも同じ事に触れましたが、声や歌やその他の表現へと繋げる為の呼吸のワークショップと銘打って皆さんとやり取りをする際に、一体何をして差し上げれば良いのかは永遠の大命題とも言える悩みとなります。

その方が全てをなげうって何かを伝えなければならない相手でもない僕の前で如何にもそれと同じシチュエーションであるかのように振る舞ってもらって、しかもそれがそこそこ上手く出来てしまった日には、僕はその人をそそのかして嘘をつくテクニックを吹き込んだことになってしまいます。

それは僕の本意ではありませんし、参加する方も、そのようなことに引っ掛かってはいけないのです。

それでも僕みたいな変人では無い全ての参加者は、僕が今、本意ではないと述べた方法を至極当たり前のように求めて来られます。

それが、常識的なレッスンというもののようです。

そして、かなり多くの方が、練習ではかなりリラックス出来るようになったものの、やっぱり本番では緊張してしまうと訴えます。

これは、冷静に判断すればある意味当たり前のことと言えます。

さて、そうすると今、現時点で例えば僕がワークショップで皆さんにご提供・ご提案出来ることとは一体全体何なのか。

本当に呼吸が切り替わる意味、そして、その切り替わった時に最も目に見えて変化している体の部位に付いて、説明しながら感じてもらう、そんなこと位なんです、少なくとも今のところは。

そしてこの、本当に呼吸が切り替わる意味、これは言い替えるなら、切り替わってない呼吸の時に切り替わってない呼吸をどれだけ大切に、ひたすら只ひたすら味わえるか、その一点に掛かっている、そのことが、最近になって確信的実感となって浮上して来たのです。

大事なのは、シュミレーションなんかでは絶対に無い、ということです。

敢えて触れていなかったとても大切なこと

昨日は記事を二度更新しました。

そこでは以前に書いたことの振り返りも含まれていて、二つのパターンの呼吸と体の関係を詳しく述べています。

その中で、敢えて詳しく述べていないこと、ワザと言い残してあることがあります。

それは、姿勢のことです。

でもこの姿勢のこととは背筋か延びていて正しいとか、猫背であるとか、それはまた後で出て来ることにはなりますが、今言おうとしている姿勢とは、起きてるか寝てるかという単純なことです。

それで、表現とか、積極的なエネルギーの放出をテーマにしているこの一連の記事では、実は起きてる時のことを中心に述べています。

もっとしっかり伝えるならば、地表から鉛直方向に立っている時だと思っていてください。

寝ていてもヒトは一定の表現をしますし、実際のところ、寝ている時の方が呼吸は楽にスムーズに出来ます。

これは、特に横隔膜に付いて言える事のようですが、四つ足で体を地面と平行に生きている動物と同じシステムのまんまでヒトは二足での直立歩行に移行したらしく、これから気の遠くなるような長い年月をかけて今の姿勢に合わせて進化するのだとしたら今はまだその過程であり途上ということで、地面と垂直に体を立てている時の呼吸は厳密に言うと決して効率の良いものでは無いということなんです。もしかすると肺を持つ動物の中で一番呼吸が下手なのがヒト、それと、レッサーパンダ風太だったのかも知れません。

但し、それと引き換えにと言いますか、そのような呼吸のリスクをも厭わずに背骨を天に向け立つことで頭をえらい高い位置にまで挙上させ、その副産物として言語まで獲得したのが我々人間です。

皆さんここで、例えば、朝方に自分はまだ布団の中でウトウトとしている最中に、家族や同居人やその他ちょっと後ろめたくてややこしい関係の人とか、まあそれは誰でも良いんですけど、先に起きて何処かへ行こうとしている時を思い描いてみてください。

それでその人は、「行ってきまーす」とか「じゃあねー」と言って出口に向かっています。

まだ微睡み状態のあなたはきっと、「うぅ~ん」とか「は~ぃ、いってらっしゃ~ぃ」とか、割りとどうでも良い返事をするかも知れません。

このレベルなら、寝たまんま、ベッド(さっきは布団って言ってた)に深く体を沈めたまんまで何の問題も無く、言葉の明瞭度なんかも全く気にはならずに声を出せるでしょう。

ところが急に、ハッと大事な何か、伝えたり聞いといたりしなければならないことを思い出したとします。

そうすると、どうなりますか。

これはその時の、まだ静かに寝ていたい欲求の度合いと伝えたい聞きたいことの重要度との相関関係にはなって来るのですけど、首をちょっと起こす、その方向性が大きくなると、ガバッと体を起こして、「帰りは何時頃になんのー」とか、「忘れ物無いのー」とか、「次また会ってくれるのー」とか言うでしょう。

言葉にして伝える内容が複雑で重要な程、体を真っ直ぐに起こした方が楽であることを体はちゃんと知っています。

それで、最も分かり易いのは二本脚で立っている時ですが、椅子や地べたに座っている状態でも、体がだいたい地面に対して垂直に起きていれば、脱力しただけで表面積が広がり、息を取り込む努力どころか、立っているという無意識の仕事すら一瞬手放すこと、つまり究極の陰の状態で最も効率良く空気を体に取り入れることを助けてくれる人体で最大のエリア、それが背中です、ということなんです。

矢継早の更新

ところで、"~~になります。"という言い回しと、"成増(なります)"という駅名がかかっていたのには気付いてもらえてるのでしょうか(怒)

それはそうと、ここからは普段体の動きを実際に見たり体験して頂きなから納得してもらうことを、この自慢の筆力一つで説明しなければなりません。先が思いやられます(怒)←(※何で怒ってんの)

切り替わってない方の普通の呼吸と、切り替わった方の呼吸の違いを、より具体的に詳しく説明することは、大事なエネルギー表出の場面でその切り替わりを阻害することが如何に非効率であるかを説明することにもなります(今ちょうど帰路でまた成増駅を通過しました←※このシリーズはこれがラストです)

このことはやっぱり、腹式とか胸式という訳の分からない分類で呼吸を捉えても意味はありません。

でも、僕の論調でも少なくとも呼吸を二つのパターンに分けて考えているのですから、体のレベルでも二つに分けてみましょう。

体の前側と体の後側、全面(胸)と背面に。

ずっと以前に、体を前屈する動きと呼吸の関連を書いた覚えがあります(因みに"アリマス"って駅はあります?)。

自分の背中というエリアは、通常、よっぽどの事が無い限り肉眼では一生見られない箇所です。なのでお腹や胸といった前面に位置する体の部位と比べると随分意識も薄いことが多く、体を前に折り曲げると、「お腹が凹む」とは感じても、「背中が広がる」とは感じにくい。

逆もまた然りで、腰に手を当てて上体を反らした場合(別に腰に手は当てなくても良いですが。牛乳を飲む時も)、胸が広がるのは味わえても、背中が縮んでいるのを気に掛ける人はなかなか居ません。

そこから繋がって、前屈すると息は吐くもんだと思ってしまってる人が多いけれども、実際には、その時々で体の広がっているエリアの方に意識を向けるとそれに応じて息の流入を助けることになって、一回一回の呼吸の豊かさが増す。だから、前屈=必ずしも呼気じゃなくて、吸気も出来る、寧ろ、ヒトの体の構造上、後ろに反らすよりも前に屈めた方が可動域も広く、柔軟体操でも無い限りは膝だって自由に曲げても良い訳ですから、背中の広がりに任せて息を迎え入れる方が、楽に吸気の量をUPさせることが可能となる、とか、そんな内容を書いた筈です。

書いて無かったとしても今書いたので今これを読んでください。どないやねん。

この地球という星の地表で生きて行くための呼吸では、時には重力に抗い、時には重力に任せるという二面性がどうしても必要になります←(※・・・・・・何とか堪えました)

何せ先ずは肺という臓器をどうにかして膨らむように仕向ける必要があります。これは何も自意識で呼吸をコントロールしようという意味ではなくて、意識を介入させないレベルでも、生理現象としてそういう仕組みが必要という意味です。

命を効率良く繋ぐ意味では、呼吸という一つの運動においてさえ体力の消耗をほんの僅かでも少なくしたいのはやまやまなのでしょうが、息を吐く時か取り込む時のどちらかで、ちょっとのリスクは織り込み済みで重力に抗うことは避けられません。

それで、普段の呼吸を皆さんもじっと体感して頂けるとお分かりになるかと思いますが、吸気の時、重力が引っ張るのとは逆の方向に呼吸筋が作用して、更には、自分の体の伸縮性の幅の中で、中庸なサイズよりも少しでも膨らもうとして働いているのが感じ取れるのではないでしょうか。

魚などの肺を持たない水棲生物や単細胞の微生物などは、このような呼吸のちょっとしたリスクのようなものは無いのかなと想像したりもしますが、ここではそれは置いときます。

とにかく、通常の呼吸では、息を取り込む時にエネルギーを使って体を膨らませ、息を吐く時にはその努力をパタッとやめるという方策をヒトの体ではどうやら取っているようです。

なので、この呼吸のままで何かを表現しようとしても、肝心のエネルギーの表出時、息を吐き出す時には力を全て抜いてしまうので、力強いものは何一つ生まれ得ないことになってしまいます。

パフォーマンスの時に、力を抜いてリラックスしなさいと言われる事があるかと思いますが、あれは厳密に言うと、" 余分な " 力を抜け、ということであって、普段の呼吸の呼気時のような脱力とは全く意味が違います(そのように指導する人も意味をちゃんと説明出来るのかどうかは分かりませんが)。

そこで、ヒトの体の構造が重要なポイントとなりクローズアップされて来るのです。

息を取り込むには体の何処であれ、広がる箇所があればその広がりに応じて息は入って来ると言いました。

そして、体を前面と背面に分けて見てみましょうとも言いました。

胸を始めとした体の前面を広げるには、やっぱりどうやっても重力に逆らう必要があります。

ちょっとやってみてください。脱力すればする程、体の前面は萎んでしまいませんか。体の前面の意識をメインにしている限り、どうやっても吸気時の努力と呼気時の脱力のパターンから抜け出すことは不可能なのです。

が、反対に考えてみましょう。

上体の力を抜いてダラッとしてみると、背中の表面積が広がっているのに気付きませんか。

勿論、力を抜かずに意識的にグッと突き出すようにしても背中を広げることは容易ですが、それでは胸を広げようが背中を広げようがあまり意味は変わらなくなってしまいます。

ここで大事なのは、エネルギーを取り込む時に、次のターンとしての肝心なエネルギーの利用・放出に備えて、如何に消耗せずに静的な瞬間を実現出来るのかということです。

それで、体の構造と地球の重力を合わせて考察し観察した時に見えてくる事実、それは、脱力することで広がる唯一で最大のエリア、それが背中だ、ということです。

こっそり更新

どんなに間隔が開こうとも何事も無かったかのように強いハートで記事を更新。

スポーツの世界では、瞬間瞬間での呼吸の切り替わりに関して余計な人為的操作は介入していない現状と、それが幸運なことであると書き進めていたのでした。

かなり前に、かなり前といきなり言われても、前回の記事すらがかなり前なのに、一体どのレベルのかなり前なのかが読者の皆さんには分からないかと思いますが、前回の記事よりもかなり以前、筋トレと体全体のバランスに付いて書いた記憶があります。

なので、それを考慮に入れると実はスポーツの世界でも厳密な意味では人為的操作は加わっていることにはなるのですが、今は切り替わるタイミングや呼気と吸気の方向性のズレに関してだけ言及しています。

内的に発生したエネルギーを外的に使う必要に駆られた時、そしてその必要なエネルギーが強大であればある程、その直前に真逆の状態で準備するのが自然の摂理です。

ボールを投げる蹴る、これが格闘競技であれば人を投げる蹴るになりますし、歌など声の表現であれば声を飛ばすことになります。

今ちょうど成増の駅を通過しました。

最もエネルギーを表出させる直前に現れる最もエネルギーが表出しない状態。

究極の陽に対して究極の陰の状態。

これを紐解く為に、極めて単純な体の構造と極めて単純な地上の法則を見てゆこうと思います。

お待たせした分、あ、待ってないか、次の更新は早くなります。

さっき、成増駅を通過しました。

認識することと手を加えること

アドバイスすることは今を否定すること。

どんなにオブラートに包んで優しい言い方をしていても、アドバイスとは対象となる人の中に欠点や問題点を見出だしてそこに焦点を当ててしまっている、「今のままではいけない」という否定の言葉です。

「そのまんま、あなたはそのまんまでいいじゃないですか」

と何故言ってあげられないのでしょう。

これは勿論、僕自身に対しての戒めでもあり、決して東国原さんへの忠告ではありません。

僕は今でも時々、本当に極々希に、アドバイスしてしまいますし、もしも目の前で暴力沙汰やなんかがあれば止めるでしょうし、他にやり方があるだろうと分かったようなことをきっと言うなり思うなりするでしょう。

更には自分にその火の粉が降りかかって来たならば「そのまんまでいいじゃないですか」とは絶対に言わなさそうです。「何をさらすんじゃい、ボケ!」と反撃もすることでしょう。

それかその場から逃げるように直ぐ様立ち去るか(笑)

でもこれは単純な話では無くて、暴力沙汰を起こすような人は、きっとそれまでに「あなたはそのまんまでいい」ということを、余りにも伝えられ無さ過ぎた人なんだと思います。

とかくこの世は「そのままではいけない」というメッセージで溢れています。

読者の皆さんもとっくにお分かりの事かとは思いますが、きっと恐怖心を煽ることが一番お金儲けに直結するからだと思います。

呼吸もその例外では無い、そのように僕は感じています。

“呼吸を改善しましょう、呼吸を整えましょう(でないと、あなたの将来は大変なことになりますよ)”といった煽り文句、結構目にする機会も多いのではないでしょうか。

自分の命を繋ぐ為に確かに呼吸という営みが体の中にある。

それを、しっかりと事実として認識することも非常に大事だと思いますが、それよりも更に大事なのは、その認識した呼吸を、意識でどうのこうのと触ること無く、手付かずの状態でそのまんまで見守ることです。

宇宙とか自然とか、身近なところでは御先祖様とか、そのような計り知れない何かからの恩恵とも言える命、それを繋ぐ呼吸。そのそのまんまの姿や有り様がどれだけ凄いか、そのまんま手付かずの呼吸を認識し感じることで、どれだけの深遠なる世界が広がっているか。

そこにアドバイス、こうすればもっと良くなるというような横ヤリは一切必要無いと僕は常々感じています。

自分で自分を認める事は本当に困難なことです。いくら言葉で心で自分に言い聞かせてみても、心底本心から自分を認めることは、凄まじい過去をリアルに体験して来た当の本人だからこそ、それはそれは至難の技です。

しかし、そんな時こそ、呼吸と出会ってそっと見守ってみるのです。

呼吸の数を数えたり、息をちょっと止めたり、そのようなことを一切せずに、呼吸が長いとか短いとか、浅いとか深いとかの判断もせずに、確かに、今肉体を伴って生きているからにはどのようなものであれ確かに呼吸はある。

それは、雑念とか集中とかに興味があり、そのような方面でスキルアップを目指しているような方には非常に申し訳なく思いますが、雑念ごときで呼吸は止まる筈もなく、どんなに考え事が頭の中に渦巻いていても、残念ながら呼吸は続いている、という意味です。

雑念にも負けずに呼吸に集中出来た自分が偉いのではなく、雑念があろうが無かろうが営まれ続けている呼吸が凄い、ということです。

それを認めることこそが、自分を認めることだと思います。

そんな中で、本当に必要な時に、呼吸は切り替わるのです。

昨日は広島·福岡の皆さんとのオンラインワークをやってました

ワークショップに参加してくださっている方が、あんまりこのブログを読んでくれてないことが分かって来ました。

読んでくれると嬉しいです。

昨日のワークショップには新しい方にもご参加頂いて非常に有り難かったです。

その新しい方が余りにも受け取り方が鋭くて洞察も深いことから、全て分かってしまってもう次からは来てくれないような心配ばかりが頭をよぎりまして、それで「是非ともまた次回も参加してください」と、ひたすらお願いを繰り返しておりました。

また来てくれると嬉しいです。

それで、前回からスポーツ的な動きと呼吸に関して綴り始めています。

例えばボールを投げる時、エネルギーの焦点を何処に持っていくのが最も効率が良いかと考えますと、指先からボールが離れる瞬間だと思います。

その瞬間、同時にヒトは息を吐いている、もしくは呼気傾向で息を止めていることもあり得る、と前回述べました。

それで、それよりももっと大事なことは、息を吐けるからにはその前段階で息を体に取り入れているという事実がある、ということでした。

このような事実は非常に大切なことだと思いますが、それほど殊更には取り上げられて来られなかったものでは無いでしょうか。

そうなんです、本当に体が勝手にやってくれていることであるが故に、放ったらかしにされて来たのだと思います。

これが、良かったんだと思います。人間の知恵とやらでいじくり回されずに済んだ、スポーツの世界では、の話です。

読者の皆さんも、またしても、ちょっとご自身の体の動きで実験可能な方はやってみてくださると良いのですが。

ボールを投げる瞬間に息を吐いている事実を認識したとして、そうしたら、その吐く息がもっと充実するように、ボールが指先から離れる前のどこかのタイミングで「上手く息を吸え」(昔、スネークマンショーに「急いで口で吸え」というのがありました)と指示されたら、どうですか。

より良いボールが投げられそうな感じはしますか。

野球の例えでは分かりづらい方の為にサッカーの例えに切り替えましょう。

例えは切り替わる。

PK。ペナルティーキックの時。キッカーはボールをセットして、助走を取る為に少し後ろへ下がりますね。

そうしてゴールの方を向いて、その場で暫し佇んで、どのようなタイミングでどの角度でどの方向に蹴ろうかと、ゴールキーパーとの駆け引きも含めた時間が流れます。

この時、キッカーの呼吸は、切り替わっていません。運動の最中で、気分も高揚しているでしょうから活発にはなっているでしょうが、タイプとしては普段本を読んだりじっと考え事をしたり、寝ている時と同じタイプの呼吸です。

それで、助走を始める瞬間、呼吸は切り替わり、ボールを蹴る瞬間には最も強烈に切り替わった呼吸と共に息を吐いています。

どうですか、サッカーの例えは分かりやすいですね。

それでやっぱり、このボールを蹴る瞬間の呼気を更に増強させる為に、そのちょっと手前で「しっかりと息を吸っておきなさい」と指導されたら、より上手くボールが蹴れると感じますか。

スポーツ選手がヨガを始めとした呼吸法をトレーニングに取り入れていることは近年極普通のこととなっています。

が、幸運にも、プレーの流れをギクシャクさせてしまうような意識的な呼吸の介入、そんなことには今のところなっていないと僕は見ています。

もし誰かが血迷ってそのような介入を思い付いたとしても、直ぐに意味の無いこと、と言うより却って邪魔にしかならないことに全ての人が気付くことでしょう。

そうなんです、ヒトは(他の動物のことは今のところ知りません)、高まったエネルギーを何らかの理由で自分の外側へと放出(大阪には放出と書いて“ハナテン”と読む駅があります)する際に、呼吸はひとりでに切り替わって、必要な分量の息を勝手に取り込んでくれます。

念の為にもう一度書きます。

必要な分量の息を勝手に取り込んでくれます。

しかし他方で、残念ながらそれを、伝統的に、あからさまに遮断している世界がある、ということです。