呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

デアゴスティーニの恐怖に凍り付いていたらいつの間にか6月1日独立二周年の日が過ぎていた、その思いと再掲載シリーズの真意など

必殺シリーズという時代劇をご存知の方も多いかと思います。

僕は子供の頃からあの番組が好きで毎週のように家族と観ていました。

何年か前から、週間分冊雑誌·テレビCMでもお馴染みのデアゴスティーニから“必殺仕事人DVDコレクション”というのが出ており、ささやかな娯楽としてコツコツと買い続け、今日の火曜日でついに最終号を迎えるところまで来ました。

長かった。

途中、そんなに会心の作ばかりでもないので中弛みのような期間を幾つも乗り越え、やっと最終号。

思い起こせばデアゴスティーニとの出会いは大学の3年か4年の頃、確かまだ同朋舎って名前で「週間グレートアーティスト」という、画家を毎号紹介するシリーズが始まりでした。「始まりはゴッホから」というテレビCMもよく覚えています。

このシリーズも、はじめの内はやれゴッホピカソルノアールだと、超有名どころが名を連ねるものの、早くも10から20号頃になると「誰これ?」という人々が出て来始め、それが100号まで続き、更にはその後に「週間アーティストジャパン」というのが50号まで出るという、抱き合わせ商法スレスレ、業界用語で言うところの“バーター”の塊のようで半泣き状態で意地になって買い続けたのを思い出しました。

参考までにこの150冊の雑誌は良好な保存状態で長らく押入れに眠っていたのを全て、数年前にとあるNPO法人に寄贈させて頂きました。

······それで、そのデアゴスティーニから数日前にDMが届いてまして、その仕事人最終号の発売日と同じ日に、今度は“必殺シリーズ(仕事人以外の全作品)DVDコレクション”発売ですと、、書かれて、、いました、、、。

僕は何度かお伝えしてますように最近ずっとテレビが無い生活なので油断してましたら、CMでも流れてるそうで······。

仕事人DVDの創刊当初、「今後どんな企画をやってもらいたいか?」というデアゴ社のアンケートに「仕事人以外の必殺シリーズ全部」って、確かに書きました。

しかし、、、ホントに出るとは思ってませんから、そんなの書いてる時って。しかもこれまでそんなアンケートに書いたことが現実になった経験なんて無かったですし。

そんなこと本気にされたら困るんです······、はっ!女の人に何度も取られた態度、言われた台詞。そうか、こんな気持ちだったのか!

久しぶりの記事更新にふざけモード全開ですが、ここで必殺豆知識。皆さんも何処かで耳にしたことのあるこれぞ必殺というトランペットの♪パララーーー、パーラーラパーラッパッパッパララーーーーー♪(←分かりますよね?あ、でもこれで分かったら分かったでJASRACにいくらか払うんですかね?)っていうメロディー。これ演奏したのは有名になる直前の日野皓正さんです。少年の顔に平手打ちしたのは必殺の影響では無いんでしょうけど(もうとっくに済んだ話を蒸し返してスミマセン)。

それから、必殺と言えば光の明暗を駆使した映像美もその魅力の一つですが、あの巨匠·市川崑監督がその秘密を知りたくて、必殺に出演中だった草笛光子さんに「あのシーンは一体どうやって撮ってるんだ?」と電話で尋ねたほどだったとか。

その草笛光子さんが初めて必殺のレギュラーとなったのが、緒形拳さん林隆三さんと共演した「必殺必中仕事屋稼業」。←タイトルが長くて複雑ですよね。これにもちょっとした訳がありまして、必殺が最初に人気を獲得した頃、ある殺人事件の犯人が「テレビ(必殺)に影響されてやった」という発言をしたとかしないとかの噂が流れました(この発言は後に犯人がはっきりと撤回)。

その為に「必殺仕掛人」「必殺仕置人」と続いた後、「助け人走る」「暗闇仕留人」とタイトルから“必殺”の二文字を廃した作品が続き、その後にこの「必殺必中······」が始まり、少しずつほとぼりが冷めるのを見計らっていた時期だからこそのネーミングかと思われます。

それで、この必殺必中仕事屋稼業の放映期間中に、今度は放送業界特有の事象、ネット局の変換(業界用語では“腸捻転”というそうです)が必殺を襲います。

必殺を製作していたのは大阪の朝日放送(ABCテレビ)で、これを首都圏でネットしていたのがTBS。そして大阪の毎日放送(MBS)を首都圏でネットしていたのは当時のNET(現テレビ朝日)。

なんか変ですよね、朝日新聞資本の局と毎日新聞資本の局が捻れた形でネットしていた訳ですから。

それで、その捻れを整理して朝日放送とNET(現テレビ朝日)、毎日放送とTBSがネット局として繋がり直したのです。

それで何が必殺を襲った問題かと言いますと、その腸捻転の整理が元で放送曜日と時間が変更になり、視聴率が一時的に低下してしまったのでした。

そこで、この時の必殺のスタッフ達がやったこと、それは、これでもか!これでもか!という勢いと熱意·集中力によるドラマ作りでした。

シナリオの綿密さ緻密さから演出·カメラワークに至るまで、「何故これでも視聴率が盛り返さないんだ!」というプロフェッショナルの本気が溢れた仕上がりとなり、それが却ってこの「必殺必中······」をマニアの間でも全シリーズ中1、2を争う人気作に成長させる形となったのでした。

僕は、今も続くこの新型コロナウィルス騒ぎの期間中に、この腸捻転騒ぎの時の必殺スタッフと同じ思いでオンラインワークショップや、オンライン個人セッションをやっていたようです(きっとまだこれから暫くの間も)。

オンラインが(思っていたよりも)こんなに良くて実際に効果があって、しかも変な意味ではなく無料で解放しているのに、新規の方が増えないのはともかく、普段から関わってくれていた人達が何でこんなにも利用してくれないんだろうと本気で考えながら、このような状況からしか出て来ないような特有の集中力と発想力、独創性を発揮し、半ば意地を見せて本質を伝えていたところが、はっきり言って、あります。

特にここ数回の内容は、いくらワークをやっても実際の活動や生活、生き方に何にも反映されない人との違いをどのように見付け育ててゆくかに焦点を当て、目頭の奥の更に奥の方を悔しさで熱くさせながら、本当のこのワークの意味を、より丁寧な体へのアプローチと伴にお伝えしました(本当に伝わったかどうかは相変わらず心許ないですが)。

僕のワークでは、巷に他にも沢山ある個人の権利を限り無く尊重するワークや療法と同様、“やりたくない事や動きが出て来たら無理にやらなくても良い”という約束事を常にお伝えしながら進めて行きます。

だから、このオンラインワークが“やりたくない”という個人の権利も尊重することに変わりはありません。

その一方で、僕のワークに興味があって、ある程度信頼して関わってくれている筈の方々が、もしも事情や環境にはさして問題がなく、単なる偏見や食わず嫌いでオンラインワークに来てくれなかったのだとしたら、試食すらしてくれなかったのだとしたら、あくまでも仮にですが、僕はこれからリアル対面ワーク復活の気運が高まりいよいよ現実となった時に、その方々とどんな顔で向き合えば良いのか、まるで表現やコミュニケーションの素人に戻ってしまったかのように狼狽えてしまうかも知れません。

逆に、これだけの期間をご自身の創意工夫で乗り切り凌ぎ切ろうとしているならば、こちらがその心身のバランス維持の極意を習いたい位です、これは純粋に真面目な気持ちとして。

先日まで僕はこのブログで、過去の記事の再掲載をシリーズ化していましたが、それの元々のきっかけは、

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/04/08/231314

↑この記事と

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/04/26/004149

↑この記事を、新しい思いが産まれるまでずぅーっと毎日同じ文面で更新し続けようかと考えたのが始まりでした。

それ位、特にこの二つの記事には本気で伝えたい大切な大切な思いや考えが言葉と言葉の間、所謂行間というやつだけにでは無く、層を成して織り込まれていて、しかしにも関わらずその思いに反比例するかの如くちっとも伝わってる感がないものだからです。

それで、その思い付き序でに第一回目からブログを全て読み返し、興味深いモノをピックアップして解説付きでシリーズ化したというのが本当のところでした。

特に後者の方、

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/04/08/231314

↑こちらの内容を、自分に嘘がないように今一度味わい直さなければなりません。

思いの外早く、形の上だけとは言えど、緊急事態宣言とやらも解除となり、ここに書かれた思いを行動を形にする時期は早く来るかも知れません。

独立してからちょうど2年。

二周年の節目をこのような状況で迎えるとは想像も出来ませんでした。

しかし考えようによっては色んなことを見つめ直すまたとない良い機会です。否応なしに気持ちが更に内へ内へと向かう。

本当に今一度独りとなってこの世間と向き合い渡り合う為に、せっかくこんなに小規模な範囲内での繋がりの中で、自分のワークショップに関する事を、自分の呼吸で、自分の言葉で、自分と自分に関わってくださる方お一人お一人と各々の個性を尊重したタイミングと媒体で、ちゃんとコミュニケーションが取れるように、身辺を整理整頓し歩むその原点に返らなければなりません。

別に独りが好きな訳ではないけれど、このままでは一度独りにならないと、“本当に”やりたい理想の形からはどんどん遠退いて行く。

これは何も、外界との交流を一切遮断するということ等では勿論無く。

しかし場合によってはいろんなモノを冷す時間も必要でしょう。

何れにしても、転んでもタダでは起きない、むしろ新型コロナウィルスとそれに釣られた自分も含めた世界に対して結果的に感謝出来るような未来にしなければなりません。

自分の呼吸に出会い、自分の言葉で伝え、自分の脚で歩む、各々が本当にそのように出来た時に初めて、本当の助け合いも実現します。本当の助け合いとは、正真正銘その響きの通り、本当に助けが必要な時に躊躇いなく救いの手を差し伸べることで、それは即ち、そうするべきではない時や状況をも同時に峻別出来る能力を持つことでもある、ということです(このこともつい最近別の記事に書いたなぁ、何処だったかなぁ、また同じことを書かずには居れなかった、ということか)。

僕は皆さんとワークをやる時に、そうしてると思うのですが、余計な時に余計な補助をしちゃってますか?

皆さんが自分の呼吸で自分のタイミングで自分の動きが出来るように見守ってる積もりなんですが、どうでしょう?

例え自分に取って損な動き(大雑把に言えば間違いや失敗という概念に近いこと)をしているのが伝わって来ても、“失敗させてあげる”“間違わせてあげる”ことが大切なのですが。

僕を見習うことなんて何も無いと言っても良いですが、もし参考にしてくださることがあるなら、

  • 決して指図をしない
  • 間違いを指摘しない(そもそも間違いという概念を絡めて人を見ない)
  • 余計な手出しをしない

他人の力の出し所を、見せ場を、晴れの舞台を横取りしない、決して台無しにしないこと、ちゃんと失敗させてあげること、存分に間違わせてあげること、そこはどうぞ、真似してみてください。

吉田拓郎さんが作ってかまやつひろしさんが歌った「我が良き友よ」という有名な曲の中に“暑中見舞が返って来たのは秋だった”(←これはJASRAC大丈夫?)という印象深い一節があります。

僕は、僕のワークショップから、こんな粋で世間とズレた感覚を醸し出したい。

何行か前にわざと珍しく箇条書きを試みてみました。ちょっと世間一般の“分かりやすさ”に譲歩した形ですが、箇条書きを読んでいる時のあなたの体の感覚を味わってみたことがありますか。

このブログのワークショップスケジュールも不本意ながら力及ばず箇条書きです。

あんなスケジュール欄も、どうにかして無くても良い歩み方にシフト出来るように思いを廻らせているところです。

それで、必殺DVDシリーズを買いに行かないとポイントを貯めている池袋西武の三省堂書店が閉まってしまうので、続きは次回にて。

これから輪読会をどうするか、ワークショップをどうしてゆくのか、等を書く、そんな感覚で一旦納めます。

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