呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

再掲載番外編(※また後にも続く可能性あり、その場合は“その1”)「スマホよお前もか」「地球の意志に翻弄されるのか」「“呼吸炒め”始めました」

先ず、番外編と謳ってしまえば何でもあり。

では本題へ。

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/02/24/234952スマホよお前もか」

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/04/05/210609 「地球の意志に翻弄されるのか」

http://nakayama-att.hateblo.jp/entry/2020/05/03/111038 「“呼吸炒め”始めました」

 

今回は主にこれら↑三つの記事と、最近始めたオンラインセッションとを絡めて考察してみたいと思います。

 

ブルーライト、電磁波、そもそもデジタル化された画像や音声から被る異質な感覚、それらを真正面からオールインワンで浴びながらやるのがオンラインセッションです。

このオンラインセッションを始めた当初(とは言ってもまだつい最近のことですが)に何度か述べている通り、僕は今回のウィルス騒ぎが無ければこのようなオンラインでの取り組みには消極的だったと思います。

今の時期を「こんなことでもやらざるを得ない状況」と判断した、というのが正確な表現です。

というのも、先に挙げたようなデジタル機器から被る数多の弊害は、ワークそのものから得られる(と想定される)メリットを越えてしまうと判断される方も多く居られるからです。

この点に関しては僕も、やってみなければ分からないこととして、これも何回かこのブログで述べています。

何処に線を引くか。なかなか一筋縄では行かない問題です。

清浄な食べ物を含む環境への拘りやアナログへの拘りと、少しでも楽をしたいという人間の本能もしくは煩悩は、既に全く逆のベクトルを指しているように思いますが、血を分けた兄弟のようなものでもあります。

僕はいつか、声楽の先生方の集まりで「何故マイクを使わないのかの本当の理由を明確に把握していてしっかりと説明出来ますか」と質問したことがあります。多くの声楽家の方が、肉声をそのまま遠くまで心地好く響かせることに苦慮しておられるように感じていたからです。

すると一人の方が「生の声の方が美しいからです」と即答されました。それはそれで良いのですが、無理して頑張って生の声に拘られても、意図したようには必ずしも美しくも心地好くも聞こえてはいないことが問題であることからすると、噛み合った答とはなっていませんでした。

(参考までに僕は、声楽家としては未完成であろう人の苦労して出される声も、それはそれとして感じながら嫌がらずに聞けます。“声楽”としての完成形が先に想定されてしまっていることが不幸と言えば不幸なのであって、そんなジャンルに縛られさえしなければ、その人が背負った人生の貴重な一頁として、締まった喉や固まった肩や背中さえも共感の対象となります。そのように聞かせてもらうことで演者と聴衆が通じ合い、お互いの成長に繋がり、結果として歌い始めより歌い終わりの方が、一曲目より最後の曲の方がその人本来の姿や軟らかさに近付いているならば、時間やお金をさいてお客になった甲斐があろうと言うものです。チケットを買う·招待される→則ち演者の潜在能力を全て引き出す役割と受け止め僕は人の声や歌を聞かせてもらっています)

そして、この記事に関することはその問題とはまた別のもっと単純な話で、この人達(生音に拘る声楽家の先生方)の殆んどがレコードや、きっとこの時代ですからCDも、割りと感じ入って聞いていて、更に割りと頻繁にそれらを聞いて感動すらしているであろうということ、より名のある人に関して言えば自らの作品でもCDを世に出しておられるであろうということです。

この場合、アナログ(レコード)であろうがデジタル(CD)であろうが、聞こえて来るのはマイクを通した声と同じ、一度電気信号に変換された機械から発せられる音です。そもそもマイクを通さなければ録音自体不可能です。

本当に本当の“生”に拘るのであれば、これらは全て邪道となる筈です。

しかし、生の音源との時間的空間的距離を瞬時に無きものにしてくれるこれらのアイテムはお金の掛からなさにも直結しますから、この便利さには無条件降伏状態になってしまっているのが実際のところだと思います。

これ迄に何回、玄米の体への好影響が見直されたりまたそれが逆に見直されたりを繰り返して来たのか分かりませんが、よく言われるのは、玄米は外的要因に晒され続けている殻ごと体に摂り込むので、農薬等の残留物には余程注意する必要があるという意見と、例え残留物があってもまるごと摂り込んだ玄米の栄養素や活力が、それらをも排泄させてくれるからあまり神経質になる必要はない、というものです。

無農薬作物全般にしても、有機無農薬自然農法への化学薬品を始めとする毒素を摂り込まない考え方と、無農薬だと一定のバクテリアが残存するのでそれが体内に入ってしまうことを憂慮する専門家も居ます。

強力な殺虫剤をゴキブリに浴びせると、中には何故か瀕死の状態でも少し長く生き延び繁殖行動まで行ってしまえる個体が必ず居ると言います。そしてそこから生まれた新しい個体には、もうその殺虫剤は効かなくなると言われます。

生き延びる道を選ぶ時、人間の誇りというものが在るのだとしたら、それは一体何なのでしょう。

藤原善明というプロレスラーがずっと前にこんなコメントを述べられたことを覚えています。従来の所謂“プロレス”を脱してよりリアルな格闘技術を追求するような流れの始まりの時期、脂の乗り切った状態の中で「俺なんかがいくら闘う技術を研いて強くなったと思っていても、名も無い質素な坊さんが覚悟を決めて目の前に唯じっと静かに座ったら、手も足も出せないだろう」、と。一言一句正確な再現ではありませんが、大意は合っています。

自衛隊の問題、やられたらやり返す、でないと、生きる権利を蹂躙されてしまう、その代わり、一つ大きな何かを捨てる決断も必要となって来る。その、一つ大きなものを捨てないまま(例え肉体は滅びようと)“そのまま”在り続けようというのが藤原組長言うところのこの坊さんだとしたら、この坊さんの態度を選択する人は今の世に何れくらい居るでしょう

。ミサイルが頭上に向かって飛んで来ることを認識しながらも「やるんならやれ。そんな最終的な暴力に訴えて来る薄汚れたお前らなどが蠢くこんな地上にはもう何の未練もない。そんな世はさっさと引き払い、美しい世界へ旅立つことよ」と、じっと目を閉じてその時を待つという胆の坐り様を見せ付ける、そんな選択です。そんな状態に置かれてないまま想像する答ではなく、本当にそんな窮状に置かれた時に咄嗟に採る態度が本当の答です。

これも随分古い話で、スペースシャトルが運航し始めた頃と重なるでしょうか、宇宙空間への移住、スペースコロニーのイメージイラストというのがニュース番組で映し出されたことがあります。たまたま僕が見たそれは、人工的に引力を発生させる為には遠心力に頼るしかなく、回転する巨大な筒の内側に暮らすという発想で、遥か上空には誰か知らない人の頭のてっぺんが見えているということになります。

こんな所に今引っ越してくれと言われたら断るでしょうし、今こんな所に移住させられたら気が狂ってしまうでしょう。

それが今直ぐにではなく、例えば本当に地球という星の寿命がどうやらそろそろ終焉を迎えそうだ、そんな時代の趨勢に圧される形の中であったなら、今の時点で単に想像すると正気の沙汰とは思えないそのような場所で生きる選択をする人は必ず現れるだろうと考えます。

また、地球という星そのものの寿命だけでは無く、巨大な彗星や隕石がこの星に衝突する可能性が高くなったとします。

先ず、これを衝突するその時よりもかなり早い段階で予測することが出来るのは、こんなにも地球を汚して生きてしまっている人間が、その汚す原因の代表と今の時点では成り下がっている科学の力を用いてのみ可能です(シャーマンのような方のテレパシーでももしかしたら可能でしょうか)。そして、その科学の力を集めて、人工の飛翔体、ミサイルやロケットを成るべく早い段階で向かって来る彗星や隕石に当てる事が出来れば、距離が遠ければ遠い程、ほんの数ミリ軌道を変えただけで衝突は避けられます。

彗星や隕石が衝突する先が地球以外の天体だとしても、もしその衝撃や一つの天体が無くなってしまうことで空間のバランスが変わり地球にも少なからぬ影響があると判断されたなら、そのリスクも避けるよう人類は科学の力で何とかしようとするでしょう。

そんな芸当が出来るのは、今のところは地球をこんなにも破滅の道に向かわせてしまっている科学や科学を扱える人間だけ、そんな人間を体内に棲息させているのは少なくとも近隣の宇宙では地球だけです。

このような時、地球やその他の天体は人間の“救済”行動を迷惑、自然の摂理や巨大な生態系への無配慮な干渉と感じるのか。

それともこの時の人間の行動は大自然大宇宙の大いなる意志の表れ、地球の自衛行為としての働きなのか。

こんなことを考えると、地下鉄は一体どこから電車を入れるのかを考えるよりも一晩中寝られなくなってしまいます。

しかし、紛れもなく自然から生まれ自然の一部である筈の人間の行動、人間の造り出したものが自然の埒外へとはみ出す線が確かにあって、その一線がどの辺りかを判断するその基準によっては、この天体の運命に手を出すという行為も否定されなければならないことにもなります。こんな状況下で人類全員が揃って先に挙げた藤原組長のイメージする坊さんのように、運命に身を任せてじっとその時を待つとは到底考えられません。

今、自然やアナログに拘っている人が全員揃って天体の運行への手出し反対を表明するとは思えない。

切羽詰まったら、科学でも化学でも医学でも薬学でも頼りに頼って、何とか生き延びようとする人が山ほど居るんじゃないかと思うのが正直なところです。

現に今、生態系への影響、干渉がほぼ確実な中、とにかく目の前の“敵”であるウィルス撃退の為に背に腹は代えられないと、せっせと除菌に勤しむ僕達が居ます。

ある生物の種が環境に適応し生き延びることに成功した結果、その子孫として僕達は今を生かさせてもらっています。

地球が誕生し、所謂生命が誕生した頃のシンプルな姿形から辿ると、今の人間の姿は相当に奇妙かも知れませんし複雑で無駄なものがいっぱいで、下手すると不気味な化け物にさえ見えてしまうのかも知れない、それ位、適応とは四の五の言ってられない窮状を凌ぎ続けた結果だと思うのです。

自然やアナログに拘る時、例えば自然農法で育てた作物だけを取り寄せる時、それを運んで来てくれた車は排気ガスを一切出さなかったのかに拘り、その生産から配送を手配した業者さんのやり取りの中にパソコンやスマートホンは一切使われていなかったのか、それらに関わった人やその祖先や家族も皆残らず非科学一辺倒で、その人達を動かすエネルギー源となる食物も全て純自然からのものだったのか、着ている衣服には化学繊維は一切織り込まれていなかったのか、まではなかなか拘れないように思ってしまうのですが、どうなんでしょう。可能なんですか。

添加物満載の食品を売って稼いでいる人にも家族があり子供が居て、その稼いだお金でご飯が食べられて学校にも行ける。そのご飯が無農薬自然農法に拘ったものだったとしても一概に「ふざけるな」とは怒れないし、その子が学校で今一度自然に回帰する崇高なる文化を取り戻す為の勉強をして、社会の価値観をひっくり返す才能を開花させるかも知れません。

そんなことを考えたら、どれだけ長引くか分からない今のこうした社会状況下で、少しオンラインででもワークを共有するのは、トータルで見て突出して悪いことでは無いと判断した、ということです。。

スマホのアプリみたいに面だって起動してなくても本体内で常に動いているように、ずっとこんな事を内側に感じ考えがら日々を送っていて、CMやなんかで金子みすゞの詩を読んだ時に、細かい事まで考え過ぎてさぞかし生きづらかったろうみたいな共感擬きを覚えることもありますが、いやいや僕は心気症や心身症傾向でヒポコンドリー性基調の特徴である、人を差し置いてでも自分だけは生き残りたい強かな人種(笑)←他の同じようなタイプの方、気に障ったらごめんなさい。あくまでも自称だから許してくださいね。

なので残念ながら金子みすゞのように、あんなにもしおらしくも弱くもなれない。

急場凌ぎの苦肉の策として始めたオンラインワークショップですが、急な中にもここまでに書いたような事をギュギュッと瞬時にアホな頭をフル回転させて決行に踏み切っていることを、食わず嫌いの方にお伝えしたかったんだ、それがこの久しぶりの長編新作記事の大テーマだったんだ、という事にここまで書いて今やっと気が付きました。

お疲れ様です。

食わず嫌いの人は、これと同じかそれ以上にしっかり感じて考えて体でも頭でも両方でちゃんと吟味してから嫌ってくれてるのか。それは少し、興味ある。如何なもんでしょう。

 

もし今の時代だったら眠れなくなりそうだからこのタイトルはナシだったか
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藤原善明さん
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春日 三球·照代のご両人
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