呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

呼吸は誰のためにやるのか?※超長文注意⚠️

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2月も終わりです。恐らくまた長い文になりそうなので、これを書き終える頃にはとっくに3月でしょう。

 

綾小路きみまろさんのネタだったと記憶しますが(オリジナルの元ネタはサラリーマン川柳だったとかそういう細かいことは知りませんが)、病院の待ち合い室でいつも顔馴染みの人が来ていないことを心配し「あの人、どこか悪いんじゃないかしら?」というのがありました。

 

呼吸法のワークは、多分こんなことを今更書く必要はないと信じたかったのですが、バランスを崩したり、調子の良くない時にこそ活用すべきものです。

 

インフルエンザや風疹などの極めて伝染性の高い病に罹患している方に関しては今のところご遠慮頂こうと思いますが、体の痛みや、心ここにあらずという精神状態の時にこそ参加してもらいたいと思っています。

 

そのような時に思い出してもらえない、役に立つと思ってもらえないような場だとしたら、一体何のためにやっているのか?とそれは真剣に、それは冷静に考え直してみる必要があります。

 

心のざわつきや体の痛みが落ち着いてから取り組むべきものだとしたら、それはもはやスポーツやダンス教室の類でしょう。否、スポーツやダンスにはそのような状態を忘れさせる効果がありますね。呼吸法にはそれらを忘れさせる効果はありません。

 

以前「声の使い過ぎで話すと喉が痛くて上手く喋れないから今日はお休みします」と言った方がありました。信じられないでしょうが実話です!そもそも声の出し方が悪く声帯が腫れて耳鼻咽喉科で診てもらい、その延長で呼吸法に取り組み始めた方がそのような連絡をよこしたのです。

 

わたしも同じ、この呼吸法を始めたきっかけは声も心も何もかもがバランスを崩していた時でした。そうでもなければこんな地味な作業に取り組む気にもならなかったでしょう。他の皆さんもほとんどがその筈です。なにか特別なモノに変身する為ではなく、本来の自分を取り戻す為に取り組み始めた。

 

しかし、バランスを崩したと気付く前の自分が、必ずしも戻るべき本来の自分では無さそうだということにも気付いたりして、それがもしかするとなんだかスペシャルな自分探しみたいに勘違いを生んでしまうこともあるのかも知れません。

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調子の良くない人の役に立たない呼吸法なら、そんなものは淘汰されて然るべき、です。

 

グループレッスンの醍醐味は、例えば明日大切なステージを控えて声の調整、特に高音が上手く抜けるように調整したいような人と、体そのものがガタガタで人前での表現どころではない状態の人が当たり前のように居合わせてしまうところです。このような時、前者にとっての見掛け上のメインテーマは出力で、後者は入力·エネルギーの充填と、真逆との解釈も可能ではあり、もし前者の個人レッスンであればはっきりと割り切って出力をテーマとした進め方を選択するでしょう。

 

しかし複数の人が混在する時、ステージ直前の人がもしも仮に体調不良の人を足手まとい、迷惑な存在と感じたとしたら、その人の声の根本的問題はそこにこそ隠されている可能性が大ですし、その人は翌日のステージでそもそも何の為に、本来誰の為に歌おうとしているのか?を考え直してみる必要があるでしょう。

 

素晴らしい歌を歌って、聞いてくださる方の幸せな気分が最も大切なのか、その結果、成功体験を味わっている自分の方がより大切なのか?

 

もし自分自身の成功体験が、聞いてくれている方々の幸福感を抑えて最重要事項である限り、歌うことと過剰な心配や緊張は切っても切れない関係として一生その人につきまとうことでしょう。

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··········で、呼吸法は何も特別な自分探しや、グレードアップの手段なんかではありません、残念ながら。

 

調子の悪さは今一度本気で深く深く自分へと焦点を当てるチャンスを与えてくれています。他の事ばかりが頭をよぎり呼吸に集中出来なかったら残念ではありますが、それは決して失敗体験という訳でもありません。

 

呼吸法教室は綺麗に動いて誉められることを主目的とした教室とは違います。確かに呼吸と見事に一致して醸し出す素朴な動きや声は掛け値なしに美しいですから思わず讃えますし素晴らしいとお伝えします。それでもそれよりも更に大切なことがあります。

 

綺麗な声を出して拍手してもらうのが必ずしも目的ではなく、嗄れた声なら嗄れた声なりに、何故体はそのような声を出し、何を知らせようとしているのか?あるいは声が出ないなら、声を出さないという選択をしてまでその人の本質が訴えたがったいる事とは一体何か?を、その日その場にたまたま居合わせたメンバー全員が親身になって抱えて、その“声”に耳を傾ける、そんな場だと勝手に思い込んでこれまでもやって来ていた積もりでしたが、残念ながら多くの方には、いつの間にかそのようには受け取ってもらえていなかったみたいで、本当に本当に、反省するしかありません。

 

やっぱりわたし自身から、どこか表面的に自分を取り繕うような態度が透けて見えていたとしか原因は思い当たらず、さてではどうしたものか?と途方に暮れるばかりです。

 

これ、一からやりしっかり直せるかなぁ~?

 

こんな時、調子の悪い時こそ、わたしの中で呼吸がより力強く胎動している事実、それはやっぱり恐ろしいほど静かで、恐ろしいほど強烈でもあります。

 

現在3月に入って90分ほど経過。思ったよりも早めに書き終わりました、字面だけは。


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