結局予定通りに9曲を歌い切り、一旦休憩を挟んで後半はこれまでに演奏したことがある曲目を様子を見ながら歌っていくことにしました。どれだけの時間どれだけの曲数を歌わせてもらえば良いか?聞いて下さっている方々の疲れ具合やその後の予定なども気に掛けながらの手探り状態でしたが、快くリクエストもして頂いて、物凄くやり易い雰囲気を皆さんに造ってもらいました。そのようにして極自然に「ちょうど良いお開きの時間」が共有され、無事ライヴを終えることが出来たのです。
今回はどのような条件の下で歌うかで自分の身体の反応が全く違うという感覚がよりはっきりと現れました。小さなスペースにたくさんの方々が居て、歌っているほんの目の前にも人が居る。その内に何曲かは少しキーを下げてしか歌えないことに気が付きます。
ほとんどの場合は逆で、本番に臨む前の想像よりも高いキーになってしまうことが常だったのですが、今回は以前に歌った時の高めの設定でギターのコードを鳴らした途端身体がNoのサインを出して来ました。それで半音ずつ下げながら確かめて、結局一音から一音半下げで自分の身体との交渉成立という曲が結構あり、こういうこともるんだなと妙に納得してしまいました。
これが高いキーのままやろうと思えばやれるけれど理性的配慮で敢えて静かに歌えるキーに下げたのだとしたら全く自分にとってがっかりなエピソードなのですが、そうではなくその場その時点で身体が高めのキーはNoと頑なに拒否してくれたという事実が、思い返すと何よりも嬉しいのです。
このようなことはどんな悪条件でも同じように “ 美しい ” 声が出せるように日頃から訓練していないおかげです。呼吸と声の教室に集って下さる皆さんと共に唯ひたすらに身体と呼吸と声が一つだという実感を味わうことがライヴへの準備(と言えば準備)の全てと言っても過言ではない状態のままで歌ってみる。そうなんです、“ 歌う ” と言うよりは、いつも「今日はどんなもんかな?」と “ 歌ってみる ” んです。ですから一人で自分の為に歌う時も皆さんの前で歌わせて頂く時もその心持は同じなので環境によって歌が変わるのですね。
それを練習によって呼吸と歌をどう繋げるか?と取り組んだり、練習で出来たことをリラックスして本番でも再現を!などと目指した瞬間に、そういった作業=(イコール)作為となりテレポーテーションのように遠く別次元に移動してしまいます。それらの作業は呼吸のワークとは全く相容れないものであることに気付かないことには、もう既に自身の中にある表現にも気付けないままとなるでしょう。
またちょっと話は興奮気味に横道に逸れたところで次回へと続きます。