呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

呼吸 声 歌 心 体 演奏 バランス 整える 緊張 リラックス  潜在能力 聞く 感じる 伝える 存在 表現 充実

村上春樹さんが述べていることと、This is a pen.バッシングを絡めて考える

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つい最近、村上春樹さんの本を初めて読みました。数ある村上さんの著書の中から偶然手に取った初めての一冊は、『走ることについて語るときに僕の語ること』です。

この中に、全く同感であると思う文章がありました。

(引用→)決まったことを、決まった手順で、決まった言葉を使って教えられる教師はいても、相手を見て、相手の能力や傾向に合わせて、自分の言葉を使ってものを教えることのできる教師は数少ない。というか、ほとんどいないと言ってもいいかもしれない。(←引用終わり)

決まったやり方で事足りるならば、VTR教材や近い将来にはロボットが教師の仕事に完全に取って代わるしょう。

指導者とか教師という立場の人を育てる育成プログラムは、型やマニュアルを数多く覚える時間ではなく、臨機応変で柔軟な対応が出来る人になる為の時間であってもらいたいと思うのです。養成される人々も、たくさんの事例やその時々の対応法を頭の中でリスト化するよりも、物事の中心にいつもあるものを瞬時に見極め、そこから自分が取り得る最良の道を選択出来る感性を養うこと、それだけを目指してもらえると良いと常々勝手に思っています。

習ったことがあるからこの事例には対応出来ます、これは習ったことが無いから分かりません・・・。

もちろん自身の手に余る問題をうやむやにしないで、然るべき機関や人材に送り届ける潔さと正直さは最も重要な資質だと思いますが、世の中には、とにかく今なんとかしなければいけない場面というのが結構あります。十分な選択肢と、選別している時間的余裕すらなく、今この瞬間に判断してなんとか一つの答を捻り出すしかない、そんな時。そこでは考え得るパターンのリストが役に立たないというのではなく、パターンのリストに頼らないと心許ないという気持ちそのものが、肝心な場面ではその人を役に立たなくする可能性があると思っています。

増してやその対象が “ 呼吸 ” という深遠なる世界であれば、人間一人ひとり、出会うその時々に於いて対応するしかないと思うのですが・・・。

英語教育で、“ This is a pen ” なんて実際の会話では使わない(だからそんなフレーズを習っても時間の無駄である)、という批判があります。きっと最初にThis is a penを教科書に導入した人も、まさか会話でThis is a penがそのまま使われることは想定していないと思うのですが。英語にこれから出会う人の為に、シンプルで取り換え自由な一つの骨組みとして、たまたま “ This is a pen ” を提示してくれたに過ぎないのだと思います。

今は、よりリアルなフレーズを集めた教材が多く出回っており、ネイティブが聞いても “ 恥ずかしくない ” 言い回しをたくさん覚えようという傾向が強いようです。

ものの言い方、表現様式は日々刻々と変化しており、日本語でも “ ナウい ” に代表されるように、使うと恥ずかしい言い方がどんどん増えて行き、言葉は古くなって行きます。フレーズをたくさん覚えるというやり方は、それをひたすら追いかけるということにもなりかねない訳です。

結局物事の成り立ちを骨組みから理解し、そこにどのように肉付けされて行くのかという最低限のルールを元に、自分の感性と融合して出て来たものが、その人の言葉に成る、それで良いように思うのです。その人特有の言い回しとでも言いましょうか。

たまたま知っていたスマートな言い回しのお陰で、外国人とのコミュニケーションが円滑になった。その反面、自分が本当に言いたかったことに、一番 “ 近かった ” に過ぎない表現で良しとした代償は、決して小さくなく後々に影響を及ぼすことがあると考えます。

今この瞬間に史上初めて生まれた一見突飛な伝え方であっても、本物が伝わるならばその方が良い。出来合いの表現で適当にやり過ごす要領の良さと、もどかしくとも妥協なく懸命に本物を伝えようとする熱意の差がきっと表れます。

パターン、リスト、カタログ・・・、そんなものに頼らないもっと自由で創造的な世界を見付ける手助けが、教員や指導者の養成メソッドであり、その教えはその次の、そのまた次の世代に受け継がれて行くことになる筈だと思います。

ノーベル賞候補の村上春樹さん、さすがです(勝手に乗っかってすみません)。