呼吸は切り替わる~名前のない、もう一つの呼吸法~

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“緊張”に関する指導、アドヴァイスから見えて来るもの①

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「明日の決勝戦は、変に緊張することなく試合を楽しみたい」

スポーツ選手は時折このようなコメントを出します。この場合、緊張は完全に悪いものとして語られています。

「さぁ、本日はいよいよ新装オープンの日です。従業員の皆さんは、研修で身に付けたスキルを存分に発揮出来るよう、どうぞ良い緊張感を持って、お客様を迎えて下さい!」

朝礼で店長がこのような訓示を述べた、としても違和感はないと思います。こちらの場合緊張は、気持ちの張りとして、むしろ味方に出来ることとして語られているように感じます。

今回は緊張をテーマに書こうとしていますので、無理やりその言葉をねじ込んではありますが、上の二つの架空のコメントに特におかしな個所は無いと思います。

「いつもいつもダラダラダラダラして、ちょっとは緊張感を持って生きたらどうなの!!」

このセリフにもそれほどこじつけ感は漂ってはいない、むしろ現実に何処かで誰かが言ってそうな感じもあります。

緊張は、完全には失うべきものではないと思います。

芸事やスポーツに於いて、特に大舞台になればなるほど緊張することはよくあります。ネガティブな思考が頭を支配してしまったが最後、体まで固まって普段の力が出せないことは本当によくあることです。こういう状態、冒頭のコメントにもあった緊張というのは、正確に言い表すと“過緊張”なのでしょう。

緊張≒〇  過緊張=☓

といった感じでしょうか?

でもなぜ緊張=〇ではなく≒なのでしょう?

なめらかなパフォーマンスに於いては、必要最小限な緊張が、身体の何処に分布しているかによって意味合いが大きく違ってしまうので、単純には緊張=〇印とはいかない、ということです。

肩に力が入ると、良くない事として注意される。もっと腹に力を入れるよう促される。または、全部力を抜きなさいとアドヴァイスする人もいる。

中にはこのように言われて、「具体的にどうして良いのか分からない。そのような状態が、今自分が意識してつい先ほどまでとは違う状態にしてはみたものの、果たしてそれがこの状態で合っているのかが分からない」と訴える人がいます。そして助言してくれた本人に伝える人もいれば、遠慮して直接は言えずに飲み込んだままにしてしまう人、誰か別の人に相談し、それがまた別の疑問を生んでまた別の人へ、また別の人へ・・・と延々と繰り返す人等・・・対応もまちまちです。

それはさて置きこのような形で緊張や弛緩について混乱が生じた時、教わっている人よりも、教えている方に多くの責任があると思っています。

過緊張は確かにあらゆるパフォーマンスの妨げになるから良くない。しかし緊張を完全に無くしてしまってもいけない。身体の中の必要な個所に必要なだけの緊張は生成させ、弛緩するべき個所はそうさせておく。しかもどのようなタイミングでそれらを配分していくのか?という方向性をまず示すことが指導者には必須だと思うのですが、「やっておれば自ずと分かって来るから黙って付いて来なさい」といった指導方針?の人は結構居るようです。このような、教えたり教えられたりの関係は、例えば坐禅においてとにかく坐ること、それ以外に何も無いといったような深い世界観と共通するものならまだしも、どう教えて良いか分からないからそのような指導方針になってしまっているのだとしたら、これは問題ではないかと思うのです。

そして更に問題なのは、(もしその指導者のパフォーマンスが本当に優れているとして)自分はどう優れているのか?そしてこの目の前の生徒さんやお弟子さんは、その優れている自分と具体的にどのように違っているから本来の力を発揮出来ずにいるのか?が見えているのかどうかです。このような認識が曖昧なままで、自身の感覚だけ、イメージの言葉だけで押し切ろうとすると、先に挙げたような混乱を生じさせます。

まず指導者に必要なのは、私のこの良い感覚の時、私の身体は具体的にどのような動きや姿勢を伴っているのか?を、微細に認識出来る能力です。その具体的な細やかな身体の変化は、気付きながら見る訓練さえ行えば生徒さんと客観的認識として共有することが可能です。そしてその、上手くいっている時に必ず起きている身体の動きが、学習者の方にも起きているのかいないのか?それを元に指導を進めて行けるならば、感覚だけに頼らない明朗なレッスンになると思います。

実際には人間一人ひとり身体の特徴は違いますから、上に挙げた見方・考え方にプラスして、私の身体で起きているこの微妙なバランスの動きや姿勢から来る良い感覚は、「この目の前の人にとってはどういうことなのだろう?」という思考の柔軟性、自分とほとんど同じパターンが当てはまる場合もあれば、全く違う可能性もある中で、想像力や応用力が不可欠になって来ます。こういった作業からも、当然誤差は生じますし、試行錯誤していくことに変わりはありませんが、やみくもに感覚を押し付けるのとは健全性に於いて全くの違いが出て来ます。

指導やレッスンが、こういった認識の下に行われていないのならば、お互いの成長は非常に難しいと思います。

次回から、緊張しているべき個所、弛緩しているべき個所の考察も含め、そしてそれらと心の緊張についても、続きを述べていきたいと思っています。