なかやまのATT日記-140字では納まりきらない呟き

A=あるがままに T=とりとめもなく T=たいくつしのぎ・・・な日記。

約半年ぶりに歌わせて頂きました⑤

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 優しい声、美しい声。先日も書きましたが声の質に関して先に答えが決められてしまっているならば、場合によっては虚構を演じるしか無いことになります。

毎日のように発信され続ける身の周りのニュースはどういったものでしょう?どんな環境の中に身を置いていて、どんな食材を口にし、どんな音が街から耳に届いていてどんな空気を吸って、無神経が普通になってしまった人を避けながら歩く。その時に身体(=心)に感じる妙な捻じ曲がり具合が蓄積された中でそのような環境とはかけ離れた時代に成立した様式(例えばクラシックの歌曲など)をなぞる意味とは一体何でしょうか?(クラシック音楽の巨匠達が今の時代に生きていたならば恐らくクラシック音楽はやっていないと思う理由はそこです。)そのような行いに意味がない等とは全く思っていないどころか物凄く大切な意味が含まれていると思っています。

どんな表現をするにせよ、自分自身の身体を通してしかそれを為し得ない訳で、例えば私自身の決して立派とは言えない体つきや姿勢、少しの肩凝りや悩み事などをざっと見渡した時に、普通に考えたらそんなところから美しい声なんか出て来る筈が無いと思うのです。

もし仮にこのままの身体である作品に合致するような美しい声で歌おうとした時に、その溝を埋める技術を学ぶのがレッスンなのだとしたら、面白い歌が減っていくのも頷ける話だと思います。喉が開いていないとか、脚が使えていないとか・・・。身体は正直ですから、少なくともその瞬間喉が開くようなトキメキは覚えていないし、下半身が思わず躍動するような活力を必要としていないだけの話です。

本当に表現者がやらなければならないことはそんなこととは真逆で、今あるこの身体が一体どのような音を発するのか?それをただ単純にただ潔く放出してみること以外には考えられないと思います。

そのたった一つの単純でいて多くの人にとって何故か最も難易度の高い課題をクリア出来た時に、世界に二つとないその人の持つ最もオリジナリティーのある声が生まれるのだと思います。そしてその声がたとえ嗄れていたとしても、その潔さに勝る美しさはないと信じています。

約半年ぶりに歌わせて頂きました④

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今回はラストでマイク無しの生音で一曲歌わせて頂いた事が何よりも嬉しくそして快感でした!

一回引っ込んで再び登場する際に、セッティングをやり直すのも時間の無駄だと思いその場の思い付きでやってみましたが、全曲生音でやれば良かったと心底感じました。

元々音響設備がそれほど完璧という環境ではないし、首の動きが制限されるので却ってマイクが無い方が歌い易いとは思っていたのですが、それにしてもやっぱりマイクが拾っているのは人間がしっかりと発した声(音)のほんの表層に過ぎないんだなと実感しました。

背中や首筋・後頭部からも繊細な響きが空気に伝わっていて、そんな極々小さな音(というか微振動)が実際に聴衆の耳に届いているかどうかはさしたる問題ではなく、マイクの存在やそれに伴う大雑把な増幅音のせいでそれらの繊細な要素が自身の体感からもかき消されている、その中で歌っていることが問題なんだというのがよく分かりました。

骨を中心として身体中に伝わるその振動を心地よく感じながら出す歌声はご機嫌に決まっており、そうではない時とは比べ物にならない何かが聞いている方々にも届いている筈なのです。

今思い返せばこの一曲の時ばかりは再び、歌う=瞑想?状態になっていたように思います。朗読をするように目の前の歌詞とコードを見てはいるのですが、背後も含め一番遠くにいるお客さんの存在まで自分の周囲がぐるりと完全に把握出来ていて、それぞれの人と1対1で歌わせて頂いているかのような感覚でした。

皆さんの集中もそれに応じて高まっているのが感覚でぐぐっと伝わって来るので、下手くそなギターもどんどん力まずに爪の先にほんのちょっと引っ掛かるだけの小さな音まで何の心配もなく自然に出せていて、弾き語りの醍醐味を味わわせて頂きました。

自分の身の丈に合った条件の下、気負わず無理なく、出来ることを普通にやる、それが悪い緊張を遠ざける最も簡潔な方法なんだなぁ~と思います。

早くレンタカーぶっつけ事件とボブ・ディランのことを書きたいけれど調子づいて次回ももう一回ライブ後に思った事を!

約半年ぶりに歌わせて頂きました③

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レンタカーをぶつけ2万円弁償して相当なショックを受け一刻も早くそのことを記事にしたい気持ち、更にボブ・ディランがとうとうノーベル文学賞を受賞したりと書きたい事が増えている中それらを抑えてのライブ後の感想の続きです。

春に歌わせて頂いた時には物凄い集中力が湧き出てまるで歌いながら瞑想、というより歌うことが瞑想とさえ感じたのですが、今回はそこまでは到達しなかったようです。

午前中から夜7時まで呼吸法のレッスンをみっちり持たせて頂き、現場に直行してリハーサル無しで直ぐ本番。確かに慌ただしく決して良い条件とは言えないかも知れませんが、こういった状況下で極普通に持てる力を出せることにこそ呼吸のワークを続けている意味を強く感じます。

しかし高い集中力の持続は本当に難しかった!!歌詞とコードが目の前にあるにも関わらず流れてしまって実際には見ていない瞬間が3回ありました。車を運転中にぼーっとなるような感覚とでも言いましょうか。野球のピッチャーで言う終盤でスタミナが切れて来た頃のコントロールミス?(真面目な人は練習量の多寡による原因説を標榜するでしょうが、それとこれとは関係無いように思います。)

というような感じで歌う=瞑想の境地?の再現とはなりませんでした。勿論そんなこと狙ってもいませんが、そうなっていたらさぞや気持ち良かったでしょう。

でもやっぱり皆さんの前で歌わせて頂いている時、相変わらず最も声が良く出ており、ほとんどの曲で何となく想定していたキーより半音上げで歌っていました。

聞いて頂いているからこそ心からの生の叫びが甦る。ライブとは、決して練習で出来ていることをその通り再現する場では無いんだなぁ~とつくづく思います。※歌詞やコードの間違いも全部含めて(笑)

次回もまだもう少し続きます。

約半年ぶりに歌わせて頂きました②

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前回のライブが48歳、今回が49歳。体調が全然違いました。年齢を今までにないくらいに感じたのです。ある時ガタっと体力が落ちる時期が来ると話には聞いていましたが、こういう事か!と納得してしまいました。

それに加え、今回私のお客様だけで実に30名もの方がお集まり下さり、さすがにちょっと緊張もし、一般的な意味での “ 真面目 ” に引っ張られそうにもなりました。本当に弱いなぁ~と思いました。柄にもなく「失敗しないように練習しなきゃダメか?」とライブ当日までの間に頭を何度もよぎったのです。勿論ギターとハーモニカは自分の体ではないので少し弾く時間を作って馴染ませる必要はありますし、歌も全く前以て歌わないという訳ではありませんが、練習という名目で歌っておくことがライブそのものにどう役に立つのかが実感できないのでそういうことはやる気がしない割りには今回合計時間として2時間くらいは前回よりも多く費やしたと思います。歌う曲順も何となく数日前には固まっていました。前回は適当に候補曲を持って行き、歌う直前にミトミさんに決めてもらったりしたことが面白かったのを覚えています。演奏もその分自由闊達で、より解放された感じを味わえたものですが、今回ほんの少しだけ変な真面目さが出た、それがほんのちょっとだけ残念でした。

ライブの予定が入ろうがどうしようが、本当は普段通りの生活がそのまんまいつも通りに続いていて、諸々の溜まったものを本番で一気に解放する・・・それが最も自然な姿なのですが。

半分冗談ですが半分本気な話として、“ 真面目に歌の練習をする ” とは一見当たり前のように思ってしまいますが、真面目な人は歌う間も惜しんで身の回りの仕事を全うするでしょう。そうして一所懸命頑張った心身が奏でる歌を人様に聞いて頂くことで浄化されるのだと思っています。カウンセリングみたいなものかも知れません。一方で独りきりで自分のために歌う気持ち良さがあって、それは独り言みたいなもので、もう一方で同じ独り言でも誰かにじっと聞いてもらっているだけで、もはやそれは単なる独り言ではなくなりカタルシスの始まりともなり得る。歌い手が実は一番癒されているのかも知れません。その為にはどのように歌うか?等の事前準備をしてしまってはその効果も薄れてしまう、ただ本当の今その瞬間を披露することこそが、ライブの醍醐味だとまたまた意を強くしました。

約半年ぶりに歌わせて頂きました。

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今回はピアニストがドタキャンする事態に見舞われていたらしく、共演者の伴奏がギクシャクするついでに人間関係もギクシャクしている雰囲気の中、仕事終わりにタクシーで駆け付けて歌うという経験をさせてもらいました。

到着するまでの異様な空気感がお客様からひしひしと伝わって来るようで内心焦りそうになりながらセッティングを独りでやり、それでも怒りの感情を上乗せしないよう割り切って和やかなトークを挟みながら7曲(+フィナーレでマイク無しの生音で1曲)を歌い切りました。

声が優しいと言って下さる方が何人か居られて、そう仰る方は歌声は優しくある方が良いという意味で言って下さっていると思うのですが、歌っている本人に取りましてはそれは単なる結果で、優しい声を出している積もりなどいつも全くありませんし、出そうと思ってもいません。寧ろやり場のない怒りといった感情も、歌うエネルギーの大きな一助にすらなっているであろうと思っています。

清浄という概念からは程遠いくらいに現代社会のピースと化している一人のただの人間が、もし優しい声というゴールを先に設定してしまっているならどんなにか面倒臭いでしょう。人様の前で歌うという場で、この期に及んで何かを大事に包み隠そうとしているなら「お前はそんな玉か?!」と自分に発破を掛け続ける、それが只一つ歌い手の心意気だと思います。

ところで急に話は横道に逸れますが、所謂クラシック音楽の巨匠達、そういった方々が今の時代に生きていたらクラシック音楽をやってると思いますか?

私が想像するとやってないと思います。

今回は前回の歌唱後感とは違い高揚感のない物静かな語り口で次回へと繋がっていきます、気の利いたライブの写真が1枚もない中、例によって全く内容と無関係な写真と共に。

取り急ぎライブ出演のお知らせです。

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やっと更新出来ました。大石さんと(元)盲導犬セロシアのこと その2

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頼んでもいないのにはっきりと断らないのは"Yes"と同じという傲慢な解釈によってパソコンが勝手にバージョンアップされてからブログ更新に手間取っていましたが、やっと操作出来るようになりました。

写真はセロシアの訓練の様子から大石さんに出会うまでを通して盲導犬育成の様子を紹介している写真絵本です。

外出することは大石さんとセロシアの共同作業であって、一方的に盲導犬が道順を把握して連れて行くというようなものではないと大石さんから初めて教わりました。それで渋谷という街は非常に"難しい"とおっしゃいます。教室が新南口側の明治通り沿いにあった時は、似たような入口のビルが並び過ぎてセロシアが迷ってしまったり、松濤に越してからは、途中の道のりで方々から聞こえて来る色々なコマーシャルの大音響が、大石さんの方向感覚を鈍らせて、それはそれは大変な思いなんだそうです。

道をはっきりと把握されるまで、よく駅や道の途中まで迎えに行ったのですが、その時でもセロシアはわたしを発見するや目を輝かせ、挨拶代わりに鼻先を膝に摺り寄せてくれました。

それから一緒にレッスンをやっていて一番の想い出は、ある時わたしがファルセットで少し高い音を出したら、寝そべって休憩していたセロシアが突然すっくと立ち上がって足元にピタッと寄り添うように並びに来たのです。訓練で笛を使うのかどうかは知りませんが、犬笛に似たような音が出ていたのでしょうか?とにかく見事な反応で、大石さんもそれを把握しておられて「今確かに急に反応しましたね~」とにこやかにおっしゃったのです。たしかにその時に出した自分の声は、余分な力が抜けたある意味お手本のように澄んだ声だったような気がします。あのような声は狙って出そうとすると似て非なるものになることが多いのですが、今度はセロシアには世界で一番耳の良いトレーナーとして教室に来てもらい、わたしも含めた迷える人間の声をその純粋な感覚で聞いてもらいたいと、今改めて思っています。